2013年12月23日月曜日

故宮博物院の陶磁器コレクション


故宮博物院の3階をほぼ見て回ったので、2階に向かった。

故宮博物院の第一展覧エリアといわれる、メインの建物の真ん中は、大きな吹き抜けになっている。その吹き抜けの周囲が階段になっていて、他にも、エレベーターや、非常階段がいくつかあり、階の移動は容易。

2階には、陶磁器のコーナー、書画のコーナーなどがある。

陶磁器ほど、中国の歴史の流れをよく表している物は、他にないだろう。

陶磁器の展示コーナーに入ると、まず、新石器時代の磁器が並んでいる。仰韶文化の彩陶、竜山文化の黒陶。高校時代に世界史で暗記させられた、その現物が、目の前にある。

唐の時代になると、いわゆる唐三彩が登場する。西域のソグド人を表した唐三彩は、世界帝国だった唐の特徴をよく表している。

陶磁器の展示コーナーのハイライトともいえる、宋時代の青磁のコーナー。さすがに凄い人出。団体客が、入れ替わり立ち替わり、その展示品の前を陣取って行く。

いろいろなタイプのガイドがいる。中国語、韓国語、日本語が飛び交う。皆、自分の持っている、青磁に対するありったけの知識を、ツアー客たちに対して披露している。

この故宮博物院の中で、もっとも有名な陶磁器が、北宋 汝窯 青磁無文水仙盆。この盆の前には、人影が途切れることがない。誰もが、ガラスに顔をへばりつけて、食い入るように見つめては、風のように去って行く。

それは、細長い丸いお盆の形をしている。何よりも、その色が見事。青磁というが、今の感覚で言えば、薄緑色。最高の青磁の青は、空の色をよく表すといわれるが、正直言って、どれも、空の青のようには見えない。

汝窯という窯は、宋の皇帝直営の窯の1つだったが、北の異民族、金の侵攻を受けて都を南に移動したため、わずか20年ほどしか使われなかった。故宮博物院にも、汝窯の作品は、20点ほどしか残っていない。

南宋に逃れた宋の皇帝たちは、そうした青磁を眺めながら、失われた、かつての都、開封で暮らしていた当時のことを懐かしんだ。

この小さな器は、およそ1000年にも渡る歴史の中で、あまりにも多くの人の思いを、受け入れてきたように見える。

明の時代になると、龍泉窯、景徳鎮窯という、あまりにも有名な窯が皇帝の手によって作られ、白地に龍や華やかな絵柄が描かれた、華麗な陶磁器が登場する。

特に、白地に青色の模様が描かれた青花は、西方にも大量に輸出された。イスタンブールのトプカプ宮殿には、今も、膨大な青花のコレクションを見ることができる。

清の時代になると、赤、青、黄、などの五彩の華やかな地の上に、より精巧でカラフルな絵柄の陶磁器が多い。この時代には、西洋の影響も表れてくる。あきらかに、西洋的な人物像が描かれている。

陶磁器のコーナーは、2階全体のほぼ半分を占め、最も展示スペースが多い。全部を見終わると、さすがに疲れ、小休止したくなる。新石器時代から、清の時代まで、陶磁器の歴史は、中国の歴史そのものだった。

故宮博物院の玉器コレクション


故宮博物院の3階には、青銅器と並んで、玉器の展示コーナーがある。

中国の歴代の皇帝が、最も愛した文物は、玉だった。

石が欠け、木が朽ちてしまっても、玉は、その輝きを永遠に保ち続ける。その表面は、なめらかで、瑞々しささえ感じる。

玉の中に、権力者たちは、自分の永遠の若さを、自らの帝国の永遠の繁栄を、重ねあわせたのだろう。

台湾の旅行ガイドブックの故宮博物院の紹介で、必ず写真付きで紹介される有名なコレクションは、翠玉白菜と、肉形石といわれる玉器。いずれも清の時代に作られている。

この2つは、3階の中央付近にある特別展示コーナーに展示されていた。

さすがに凄い人出。特に、翠玉白菜の周りには、人々が群がっており、遠目にしか拝めない。一度、断念し、残りの階を見た後で再び訪れると、今度は幸いにそれほど混雑しておらず、じっくりと、その神業を堪能することができた。

翠玉白菜は、もともと、白と緑色が混ざりあった翡翠だった。それを、潔白を象徴する白菜を花嫁に見立て、緑色の部分に、帝国の繁栄、多産を象徴するキリギリスを驚くべき技術で彫り込んでいる。

もう一方の肉形石は、層になった碧玉をもとに作られ、もともとあった層を活かしながら、表面に色を付けて、豚の角煮のように仕上げている。

いずれも、堅い玉を、柔らかい食べ物に模しているのが面白い。

通常の玉器の展示コーナーには、新石器時代から清時代までの、中国の歴史全体をカバーする、玉器の数々が展示されている。

玉は、古代は霊が宿っているとされ、儒教が広まってからは、それを身につける人には、徳が身に付くとされた。

展示品を見ていくと、古代の玉器は、加工はそれほど行われず、玉そのものの神秘性を尊んでいるようだが、時代が下るにつれて、加工の技術はより洗練されていく。その頂点が、翠玉白菜と言えるだろう。

日本は、中国の陶磁器、水墨画、書などを尊び、それを手に入れ、自らもその作成方法を習得し、今日まで伝えている。

しかし、玉だけは、古代日本においては、勾玉などの形で珍重したが、その後は、それほど広まらなかった。そこに、中国と日本の、人々の心のはたらきの違いを見て取れる。

故宮博物院の青銅器コレクション


故宮博物院の入口に向かうアプローチの最後に、大きな青銅器のオブジェが展示されていた。これは、亜醜方鼎という商時代の晩期の青銅器をモデルに作られている。

鼎は、古代中国においては、最も権威のある神器であり、王朝が変わると、新たに鼎が作られた。

わざわざ、このオブジェを、ここに飾っているということは、台湾の中華民国こそが、正統なる中国の支配者である、ということの強烈なアピールでもある。

この場所から、階段を上がると、メインの建物である第一展覧エリアの入口の正面に出る。多くの人が記念撮影などを行っているが、まだ時間が早いこともあり、それほど混雑している、という雰囲気でもない。

建物を入ると、正面にチケットの売店と、そのすぐ隣に展示室への入口がある。

第一展覧エリアは、3階建てになっている。特に決まったルートはなく、好きな順番で回ることができる。各種のガイドブックには、それぞれお勧めの見学ルートなどが紹介されている。

故宮博物院では、ゆっくりと時間を取っているので、3階から、2階、1階と順々に見学することにした。

青銅器の展示コーナーは、3階にある。

西周時代に作られた、毛公鼎という青銅器には、その内部に500文字以上の漢字、金文が彫られている。現在までに見つかっている青銅器の中で、最も多い文字数。

毛公という人物は、すでに勢いが衰えていた西周の宣王を支えた人物だった。刻まれた名文の中で、宣王は、毛公に対して、命を賭して自分を支えるように懇願している。

この鼎は、毛公が、自分が如何に宣王に信頼されていたかを、神々に伝え、同時に後世に伝えるために作ったのだろう。青銅器は、歴史を記録する道具でもあった。

この鼎と、宗周鐘という2つの青銅器は、3階の特設コーナーに展示されていた。

宗周鐘は、上記の宣王の先代、厲王が、南方の周辺国を制圧したことを神々に報告し、末永く、周の天下が続くことを祈願して作られた。

宗周鐘は、文字通り鐘で、ちょうど日本の銅鐸のような形をしている。その表面に、そうした内容の銘文が彫られている。

自分の目の前に展示されている、それらの青銅器たちに記された銘文よって、私たちが知る中国の古代の歴史が書かれている。

歴史の証人とも、歴史の語り手とも言える、その2つの青銅器を目に前にして、何とも不思議な感覚を覚えた。

特設コーナーを出て、通常の展示室に入ると、数多くの青銅器が展示されている。

青銅器の表面には、不思議な生き物が彫られている。中でも、饕餮とよばれる想像上の動物は、前から、興味を持っていた。饕餮以外にも、いろいろな種類の、不思議な生き物たちが、青銅器の表面で踊っている。

時代が下るに連れて、そうした生き物たちは、次第に姿を消して行く。明らかに、それを作った人々の意識が変わったのだ。

それまで見えていた、不思議な生き物が、徐々に、人の住む世界から消えていき、人々が目にすることがなくなった。

日本の縄文土器には、饕餮はいないが、火炎土器のように、実用を越えたデフォルメがされている。こちらも、弥生式土器になると、そうした装飾が消えてしまった。何か、相通じることがあるように思える。

故宮博物院の青銅器は、実にバラエティが多く、確かに見応えがある。しかし、それらを見ながら、根津美術館の青銅器コレクションを思い出した。

根津美術館のコレクションは、故宮博物院の物に比べても、決して見劣りしない。というより、造形的には、より素晴しいとさえ言える。

中国からも、多くの貴重な品々が、海外に奪われて行ったのだ。

2013年12月22日日曜日

故宮博物院へ


台湾旅行の2日目。朝、龍山寺にお参りし、そのまま士林に向かい、故宮博物院行きのバスに乗り、いったん、故宮博物院で下車してから、そのすぐ隣にある、順益台湾原住民博物館を訪れた。

その後、その日の観光のハイライト、というより、この旅の目的の一つだった、故宮博物院を訪れた。

台北を観光で訪れるほとんどの人は、この施設を訪れるのだろう。この日も、たくさんの人が訪れていた。


バス通りの大きなアーチのある入口から、メインの建物に続く長いアプローチを歩く人影は、絶えることがない。

故宮博物院には、宋以来の中国歴代の皇帝たちのコレクションが収蔵されている。

故宮という名の通り、始めは、北京の紫禁城の一部を利用して、国民党政権によって、故宮博物院として1925年に設立された。

その後の国民党政権と共産党の内戦において、次第に劣勢に回り、大陸を追い出された国民党政権は、運び出せる主要なコレクションを台湾に送り、1965年に、現在の故宮博物院をオープンした。

国民党政権にとって、歴代王朝のコレクションの保持は、政権の正統性を示す、重要な証である。

故宮博物院の施設は、共産党の爆撃に対しても、そのコレクションを守れるように、その地下に厳重な保管場所を持っていると言われている。


中央のメインの建物(第一展覧エリア)から右手には、オフィス棟や第二展覧エリアの建物が見える。

故宮博物院は、イギリスの大英博物館や、フランスのルーブル美術館とよく比較される。

一番大きな違いは、大英博物館やルーブル美術館の収蔵品の多くが、植民地時代に、支配していた地域などからの略奪品であることだろう。

大英博物館やルーブル美術館は、自らが略奪者であることを誇示する施設でもある。

故宮博物院のコレクションは、青銅器、陶磁器、玉、水墨画、書など、いずれも、中国の文物から構成されている。

さて、何はともあれ、そのコレクションを拝見するとしよう。

故宮博物院のホームページ

2013年12月21日土曜日

原住民文化主題公園にて遠い遠い昔に思いを馳せる


順益台湾原住民博物館の通りのすぐ向かいに、原住民文化主題公園、という名前の公園があった。

博物館で購入したガイドブックによれば、台湾にはおよそ3万年前に左鎮人、と呼ばれる人々が住んでいたという。

1万5千年前には、台湾の太平洋側のほぼ中央部の海岸付近に、長浜文化、という文化遺跡が発見されている。


公園の通りに面した場所には、原住民がそれぞれの民族衣装を来ている大きなレリーフが並んで建てられていた。

台湾の原住民は、南東語族あるいはオーストロネシア族といわれる民族グループに属している。

このグループは、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ニュージーランド、ハワイ諸島、ポリネシア諸島、イースター島、そしてアフリカのマダガスカル島まで、広く分布している。

その総人口数は、およそ2億人といわれ、大きな国家を形成できるほどの規模を誇っている。

台湾では、14民族、およそ50万人ほどが原住民として、政府によって認定されている。これは、台湾の人口の2%ほど。最も多いのはアミ族で、11万人ほど。次に多いのは、パイワン族でおよそ85,000人、そして次が、タイヤル族のおよそ81,000人。


台湾の原住民といわれる人々は、何万年もの間、狩猟や採集といった暮らしをずっと続けてきた。

台湾が、他の地域と密接に結びつくようになったのは、18世紀にオランダ人がこの知を植民地化した時から。

明の末期に、清により新しい帝国の前に、最後まで抵抗した鄭成功がこの大陸を根拠地とした。

清の時代になり、福建省の人々が、台湾に住み着くようになり、海を渡った。その数は、台湾の原住民の人々の数をあっという間に凌駕し、この島は、徐々に漢民族が住む島となっていった。

日本が台湾を植民地としていた時代には、日本人による大量殺戮という悲しい出来事もあった。その一方で、太平洋戦争中は、高砂義勇軍として日本軍の指揮下で戦っている。

現在は、原住民の人々が守ってきた暮らしは、台湾の伝統文化として位置付けられている。

台湾と沖縄はすぐ近く。おそらく、南から台湾に移り住んだ人々の中から、さらにその北に船を進めた人々がいたはずだ。

そうした人々は、沖縄や、その先の、九州などの地にたどり着いたに違いない。その痕跡は、沖縄のみならず、北海道のアイヌの人々の暮らしにも残っている。

この公園を歩きながら、遠い昔に、そうした海を渡って行った人々に、思いを馳せた。

2013年12月14日土曜日

順益台湾原住民博物館は穴場でお勧め

旅の2日目。

朝、龍山寺で旅の安全を祈願して、そのまま台北市の北部にある、順益台湾原住民博物館という所に向かった。

順益台湾原住民博物館は、観光の穴場で、台北観光のお勧めの場所の一つ。

順益台湾原住民博物館は、MRT淡水線の士林駅からバスで15分ほどの所にある。実は、台湾観光の目玉である、故宮博物院のすぐ隣、歩いて5分ほどの所にある。


ガイドブックには載っているが、観光ツアーにはほとんど含まれていないため、訪れる人はほとんどいない。

私が、訪れた時、ちょうど前の見学者が帰る所で、その後は、完全に貸し切り状態だった。

今度は、私が帰る時に、若いイギリス人のグループが、まるで入れ替えるようにやって来た。


この博物館は、文字通り、台湾の現住民の人々の歴史や生活の様子を紹介する博物館で、順益企業という企業グループのオーナーが1994年に設立した。

林氏というそのオーナーは、台湾の現住民への関心が深く、多くのコレクションを持っていたが、それを多くの人にも公開し、台湾の現住民への理解を深めてもらうために、この博物館を設立したという。

1階は、入口が大きなホールのようになっており、受付と売店があり、展示は、2階、3階と地下1階。

2階には、ヤミ族の住居、アミ族の囲炉裏などが再現され、農機具や陶器など、生活に関する物が展示されている。

竹を編んで作られたカゴや器などがあったが、その編み方が、縦、横、斜めといろいろなパターンで多彩に編み込まれており、その技術の高さ、デザイン力の高さに驚かされた。

3階には、民俗服、首飾りなどの装飾品が展示されている。赤や青といった原色を使った、色鮮やかな衣装の数々は、展示場の雰囲気を華やかにしている。

パイワン族の、細かいトンボ玉(瑠璃珠)を紐に通して作られた精巧な首飾り。一つ一つのトンボ玉は、色も模様も違っている。かつては、その一つ一つに意味があったが、現在では、忘れてしまったという。

この首飾りは、世界で最も美しい首飾りの一つだろう。それが、あまり人が訪れない、このような所に展示されていることに、何事かを、考えさせられた。

台湾のいくつかの部族では、入れ墨が行われている。中国でも、南方のかつての楚の国では、入れ墨が行われていた。そして、日本では、今でも一部の人々の間で、行われている。そこには、何か共通するものが感じられる。

地下1階は、信仰と祭儀のコーナー。このコーナーが、一番、興味深かった。

パイワン族が占い用に使っていた壷。上を向いて、シッポを丸めている二匹のヘビが、単純化されて、対照的に彫刻されている。

台湾の原住民には首狩りの風習がある。首狩りに使った刀や、首を運んだ袋などが展示され、日本の鳥居龍造が撮影した、首の写真などが展示されていた。

首に特別な力が宿っているという考え方は、かつては世界中の多くの民俗が持っていたのだろう。日本でも、敵の首領の首を取ることは勝利を意味し、それを公衆の場に晒すことは、見せしめの意味があった。

滞在したのは、わずか1時間ほどだったが、台湾の原住民について、多くのことを知ることができた。

もっともっと多くの人に訪れて欲しい場所だ。

故宮博物院のすぐ隣で、故宮博物院との共通入場券が、250台湾ドルで売っているので、お得に2つの施設を楽しめる。

台北に行った際に、少し時間が出来た際は、あるいは、故宮博物院を訪れたら、是非、この順益台湾原住民博物館も訪れてほしい。

後悔することは、決してないはずだ。

順益台湾原住民博物館のホームページ

2013年12月8日日曜日

龍山寺に見る台湾の人々の信仰心

龍山寺の前の通りに面した大きな門を潜ると、次にこの門が現れる。この門の右手が、中への入口になっている。


入口で、ロウソクと線香を売っていたので、買ってみた。いずれも、真っ赤なもので、日本人的な感覚からすると、ちょっと派手すぎるように感じる。




本堂にあたる建物の前には、多くの人が線香を手にお祈りをしていた。

線香に火をつけて、それを目の前に捧げながら、自分の名前と住所を唱え、その後に、お祈りしたいことを述べる。

こちらは、半分観光気分で、軽い気持ちでお祈りしているが、周囲では、真剣な思い詰めた表情で、熱心にお祈りを捧げている人が多い。


本堂の奥には、本尊の観世音菩薩が鎮座している。金ピカの世界。日本の古びた仏教のイメージは全くない。

本尊をよくよくみると、面長で端正な顔立ちをしている。女性のように見える。

日本でも、観音様は時に女性として描かれることがある。その地にある、女神への信仰と観音信仰が融合したのだろう。


本堂の柱の彫刻には、龍を始め、植物や鳥など、複雑な模様が見事に彫られている。


本堂の奥には、沢山の小さな堂があり、それぞれに、仏様や他の神々を祀っている。

入口で買った線香は、本堂だけでなく、こうしたお堂の前にも、一つ一つ、願い事を叶えながら、お供えして行く。

龍山寺には、二つの赤い木の実のようなものを地上に投げて、その落ち方で占いをする、という不思議な占いがある。それを行っている人たちも何人かいた。

この寺は、文字通り仏教のお寺だが、福建地方を中心に信仰される媽祖(天上聖母)や、三国志の関羽(関聖帝君)、日本の天神様にあたる学問の神様(文昌帝君)なども祀られている。

媽祖は、船の航行や漁業を守護する神として、香港やマカオ、シンガポールでも、重要な神様として祀られている。

団体の観光客の人々が、写真を撮ったり、わいわいがやがやと騒いでいるその間で、地元の信者が熱心にお祈りしている。

そこに祀られている神や仏も、そして、そこを訪れる人々も、とにかく、ごっちゃ煮。

この龍山寺という場所は、台湾という国のことを、象徴している場所のように思えた。

龍山寺で旅の安全を祈る

旅の2日目。まず始めに、その後の旅の安全を祈るために、龍山寺に向かった。

MRTの改札口を抜けて右に進むと、地下の商店街があり、その奥のエスカレーターを上がると、目の前がすぐ龍山寺だった。朝早かったためか、どの店もまだ開いてはいず、閑散としていた。

龍山寺は、MRTの龍山寺駅を降りてすぐの所にあり、訪れるにはとても便利な場所にある。そのためもあり、台北屈指の観光スポットになっている。


しかし、そうした観光客の波とは別に、通りの向かいから、この寺に向かって祈りを捧げている地元の人々の姿も眼につく。この寺は、単なる観光スポットではない。

龍山寺は、1738年に建立された、台北市内ではで最も古い寺。対岸の大陸からこの島に渡ってきた、福建地方の人々の手によって建てられた。

台湾に、大陸の人々が大量に移住するようになったのは、清の時代になってからだった。

滅亡した明を再興しようとし、台湾を拠点にした鄭成功の後継者達を駆逐した清は、あまり積極ではなかったが、この地を支配下に置いた。

清の時代になり、農業技術が発展し、人口が爆発的に増加した福建地方から、多くの人が台湾に移住するようになった。

始めは、南部の台南、高雄などが中心だったが、徐々に北上し、今の台北のあたりに定着するようになり、その頃に、この寺ができたのだろう。


寺の入口には、”名勝古蹟”と書かれた石碑が建っていた。


門を潜ると、右手に激しく流れ落ちる水の音がする。近くに寄ると、水しぶきが飛んでくる。

マイナスイオンを一杯に浴びている感じ。参拝する前に、気、を受けるということなのだろう。


逆に左側には、水を静かにたたえた池がある。その対比が面白い。以下の中央には、龍がドグロを巻いている。

この寺の名前、龍山寺をそのまま表しているようだ。

右手の滝の前には、気、をもとめて沢山の人が群がっていたが、こちらは、出口方面ということもあり、人影もなく、閑散としていた。

2013年11月30日土曜日

初日の夕食はQ squareのフードコート食楽大道で

台北の初日の夕食は、ホテルが入っているQ squreという複合施設の地下3階にある、食楽大道というフードコートで、台湾料理を味わった。


ざっと見回すと、20件くらいのいろいろな飲食店が並んでいる。台湾、中国料理が多いが、中には大戸屋、CoCo壱番屋などの日本の店や、インド料理、パスタ屋などがある。


内装は、若者向けのオシャレな内装になっている。客層は幅広く、文字通り老若男女、実にいろいろな人たちがいた。


注文したのは、海鮮スープセット。エビ、白身の魚、あさり、つみれのような練物、野菜、そして春雨などが入っていた。スープの味はあっさりめ、塩気はあまりなく、出汁だけで作っている感じ。

デザートは、日本のおしるこのような、薬膳のような、不思議な味。オレンジ色の飲み物は、オレンジジュースではなく、これも、ニンジンなどの野菜由来のジュース。

台湾の料理は、とてもヘルシーだという印象を受けた。

2013年11月24日日曜日

パレ・デ・シン(君品酒店)のゲストルーム


客室のあるフロアも、エントランスやフロントのように、ゴージャスな雰囲気。

部屋のキーはカード。しかもスイカのように非接触型。ドアの近くにかざすだけで、部屋のカギがアンロックされる。


部屋はモダンな感じ。入り口にすぐ右手がクローゼットになっている。泊まったのは、スタンダードタイプの部屋。


部屋を入ったすぐ左手にあるバスルーム。カーテンを閉めるだけで、ドアなどはない。

そのすぐ右手にトイレがある。カーテンをあければ、バスルームからトイレは丸見え。さらに、トイレにあるドアを開けると、ベッドルームから、トイレ、バスルームが丸見えになる。


ベッドは大きく、ふかふか。よく眠れた。

部屋のカーテンを開けると、ガラス窓の向こうに、板張りのバルコニーがあるが、残念ながら、窓は開かないので、バルコニーに出ることはできなかった。


部屋の奥から、入り口の方を見るとこんな感じ。

冷蔵庫には、ビールとジュースなどが数本あり、無料で呑むことができるが、滞在中に入れ替えはない。

水は、ホテルオリジナルのミネラルウォーターが人数分、毎日もらえる。

ホテルオリジナルのティーバックが何種類か、無料で呑める。烏龍茶、ジャスミンティーなど、どれもこれも美味しかった。

台北のパレ・デ・シン(君品酒店)はお勧めホテル


九分から台北に戻り、この旅での滞在先のホテルへチェックイン。

ホテルは、パレ・デ・シン(君品酒店)というできたばかりのキレイなホテル。大きなショッピングセンターなども入っている複合ビルの中にある。

台北駅のすぐ北側にあり、台湾の地下鉄、MRTの駅にも地下で直結しており、台北の観光には、とても便利なホテルだ。


エントランスを入ると、右手にいきなり、非日常的な空間が広がる。何だか、昔流行ったドラマの、ツインピークスのラストに登場した、不思議な空間を再現したような雰囲気。


フロントは7階。エレベーターで上がると、窓はまったくなく、少し暗めのムィーディーな雰囲気。


朝食は、フロントと同じ7階にあるレストランでブッフェ形式。点心、お粥などの中華料理、パン、ソーセージ、ポテトなどのコンチネンタル、おにぎりなどの日本料理など、いろいろ楽しめる。

デザートは、焼きたてのワッフルがお勧め。生クリームやジャムを、好きなだけ添えて、楽しむことができる。


17階には、エグゼクティブフロアに泊まっている人が利用できるラウンジがあり、夕方は軽食を無料で楽しめる。

夜、外出する前に、食事までの小腹を満たすことができて便利だ。

このホテルは、別な事業を行っていたオーナーが、ヨーロッパを何度も訪れた経験から、台湾にもヨーロッパ風の最先端のホテルを作りたいと思い、始めたという。

ゲストルームのテレビのホテル情報を流す番組で、そうした内容が放映されていた。また、部屋に置かれていたホテル紹介誌にも、同じようにその経緯が掲載されていた。

パレ・デ・シン(君品酒店)のホームページ

2013年11月23日土曜日

九份の悲しい歴史と別れ

九份にいたのは、結局2時間ほどだっただろうか。

着いたときから降り続いていた雨は、止むどころか、どんどんと激しくなってきた。


阿妹茶酒館の向かいにある茶館も、霧の中に包まれている。


九份にある唯一の映画館。昇平戯院。

九份に住んでいた人々の憩いの場所であったろう。この映画館は、映画『非情城市』の舞台にもなった。

この映画は、台湾の歴史に、今も悲しい影を落としている、二・二八事件をテーマにしている。二・二八事件とは、日本の敗戦で、台湾が植民地から解放された直後の1947年に起こった事件。

中国本土での共産党との戦いに敗れた国民党が、台湾に逃れ、台湾の人々は、ようやく日本から解放されたと思ったのもつかの間、新たな支配者を迎えることになった。

そうした支配者への反発から生まれた小さな事件が、多くの逮捕者、死者、行方不明者を出した、大事件へと発展していくことになる。

この事件とは、この旅の先で、また出会うことになる。


九份は、19世紀の後半に金鉱が発見されて、文字通りゴールドラッシュに沸いたが、やがて、日本の占領下となり、日本の藤田組がその開発を請け負い、多くの地元の労働者を使って、金を採掘した。

その労働は、過酷なものだった。体を壊した人々が入院した、当時の病院後が、観光地の片隅にひっそりと建っていた。

九份とその周辺の金鉱は、東アジアでもっとも豊富な金鉱であったという。日本は、そのほとんどを取り尽くし、台湾の開発や、その後のアジアの国々との戦費に使った。

戦後は、その採掘量は激減し、1971年には廃鉱となり、映画『非情城市』のロケ地となるまで、忘れられた町になった。

それが一転。現在では、台湾を代表する観光地になっている。

台北へ戻る頃には、辺りは少し暗くなり始めていた。

ガイドの江さんによれば、夜になると、町中にボンボンの明かりが灯され、町全体が幻想的な雰囲気に包まれ、多くの台北市民が、その夜景だけを味わうために、家族連れで車を飛ばしてくるという。

ほんのわずかの滞在だったが、この九份という小さな町は、私の心に、強く、そして深い印象を残した。

阿妹茶酒館でお茶を楽しむ

九份の阿妹茶酒館で、お茶を楽しんだ。

今回の旅では、中国茶というべきか、台湾茶というべきか、とにかく、こちらのお茶を楽しむのが一つの楽しみだった。


まず、すべての器を、上の写真にある石の台の上にぐるりと並べ、お湯をまんべんなくかけて暖める。

次に、急須に茶葉を入れて、お湯を注いでから、呑む器に注ぐが、それは呑まずに捨ててしまい、器に残った残り香を楽しむ。烏龍茶の香りがとてもいい。

呑むのは、2番茶から。茶葉は入れ替えず、再びお湯を急須に入れ、ある程度時間がたったら、急須の中のお茶を、残さず全て注ぐための容器に移し、急須は空にしておく。

後は、その注ぎ用の容器から、呑むための容器に移して呑む。

多数の観光客が訪れるだけあって、店員さんは、そうした説明を流暢な日本語でしながら、テキパキとお茶を入れて行く。

あまりにその手並みが早く、写真を撮る暇がない。

ようやく口にした烏龍茶は、いやはや、とにかく美味しい。

当たり前のことだが、日本で、ペットボトルやティーバックで呑み馴れた烏龍茶とは、全く違う飲み物ではないか、と思うくらいに違う。美味しい。

いやはや、この店での経験から、台湾茶の魅力に、完全にはまってしまった。

この旅の後、何度となく、台湾茶を楽しむことになる。


お茶のセットには、何種類家のお茶菓子が付いている。右下の白い菓子は、梅を乾燥させたもの。烏龍茶によく合う。


急須を開けると、烏龍茶の葉が大きく広がっているのが分かる。


茶葉を変えずとも、5回くらいはお湯を足して、お茶を楽しむことができる。

それぞれの席の下には、熱いお湯がいつでも沸いているので、いつでも熱いお茶が楽しめるようになっている。


何度もお湯を注いで、お茶を楽しめるように、一度お湯を入れたときは、お茶を完全に絞り出し、中に残さないようにする。

当初の予定では、このお店で、30分くらいお茶をしてから、町中を散策する予定だったが、雨が強くなってきたこともあり、帰りの集合時間まで、結局、このお店でダラダラとお茶を楽しんでしまった。

ある意味では、のんびり、ゆったり気分で、お茶の時間を楽しむことができて、その方が良かったのかもしれない。

2013年11月17日日曜日

九份のシンボルもといえる阿妹茶酒館


基山街を抜けていくと、右に坂を下る小さな道にぶつかる。そこを少し下ったところに、阿妹茶酒館がある。

台湾の旅行ガイドで、九份を紹介している部分に、必ずと言っていいほど登場しているのがこの店。

夜になると、赤いボンボリのような提灯に明かりが灯され、幻想的な景色に変わる。

文字通りの茶館だが、1989年の台湾映画で、ヴェネツィア金獅子賞を受賞した『非情城市』で登場し、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』でも、登場する屋敷のモデルになったとも言われ、今では九份のシンボル的な存在になっている。


入り口には、奇妙な3つのお面がある。この店の店主が、ドイツ人から譲り受けたもので、日本のお面だと言う。『千と千尋の神隠し』にも登場した。


お店は坂の途中に建てられ、坂を利用して3階建てになっている。2階部分に入り口がある。

中は、ゆったりとした造りになっていて、それまで狭い路地のような道を歩いてきているせいか、中に入ると、落ち着いて、開放的な気分になる。


阿妹茶酒館では、お茶を味わいながら、本格的な台湾料理も味わえる。名前の通りお酒も提供している。


2階の一番奥には、千手千眼観音がお祀りしてあった。

台湾では、観音信仰が盛んで、この旅でも、いろいろな場所で、観音様を祀っている場面に出会うことになる。


 3階部分には、屋外席があり、天気がいいときは、ここから海が見渡せるようだ。

ガイドの江さんによれば、九份はおおむね天気が悪く、いつも曇りか雨で、晴れる日は少ないとのこと。

江さんの知り合いの日本人は、今まで七度もこの九份を訪れているが、一度も晴れた日に巡り会わせたことがない、というエピソードを紹介し、私たちを慰めてくれた。

九份の基山街〜アジアの混沌と日本の懐かしい雰囲気


セブンイレブンが目印の、舊道口という入り口から基山街という狭い通りに入る。道の両側に、沢山の飲食店などのお店が並んでおり、いかにもアジア的な雑多な雰囲気で、それまでののどかな山の上の風景から一変する。

雨が降っているので、傘をさしている人が多く、狭い道が、余計に狭く感じる。


店は、食べ物屋が多い。店の店頭で作りながら売っている店もある。

この店では、巨大なエノキ茸をそのまま焼いて売っていた。


こちらの店では、イノシシ肉のソーセージ。1本40元。1元(台湾ドル)は、およそ3円なので、120円ほど。


こちらは、何ともエキゾチックな食べ物。ガイドの江さんによれば、紅糟肉団というもので、ゼラチンの皮の中に、ミンチした肉が入っているとのこと。


とある雑貨屋さんの建物。美しい彫刻で飾られている。この通りには、ゴールドラッシュの最盛期だった20世紀初頭の日本統治時代の古い建物が、あちらこちらに残っているようだ。



昔、日本の駄菓子屋に、同じようなものがあった。紙を破ると、中からお菓子や小さな玩具が入っていた。こちらは、中に何が入っているのだろうか。

九份の基山街は、アジア的な混沌とした雰囲気と、日本のなつかしい趣が、ごった煮になったような、不思議な場所だった。