2014年3月16日日曜日

総統府にて台湾の外交関係を考える

総統府の2階の見学コースを進む。

建物は、日本の大正時代に設計されている。いわゆる、大正ロマンのようなノスタルジックな気分に襲われる。

壁は、白一色で、窓枠の木組みの濃い茶色とのコントラストが美しい。


さらに奥に進むと、大きなホールに入った。ここでは、セレモニーやパーティーなどが行われるようだ。

現在の総統の馬英九、以前の李登輝、という歴代の総統の等身大の写真が置かれており、その写真と握手して、記念撮影できるようになっている。

花壇には、孫文の写真が飾られており、台湾における孫文の存在の大きさが、改めて印象つけられる。


2階から1階へと下りる階段。その雰囲気が実にいい。


1階には、この総統府の建物の建築や再建の経緯、そして、中華民国の歴史などが、模型やパネル、写真などによって紹介されている。

この1階の展示部分は、月に一度の特別公開でなくても、毎日午前中には一般公開されている。


その展示の中で、印象に残ったのは、中華民国の外交についてのコーナーだった。中華民国は、本土の中華人民共和国との関係が足かせになっていて、外交を結んでいる国がわずか、23国しかない。

その国名を見ると、ソロモン諸島などの太平洋諸島の国々、ドミニカ共和国などの中南米・カリブ海の国々がほとんで、それ以外の、いわゆる普通の国々は、皆、中華人民共和国との外交関係を持っている。

日本も、同様に、本土の中華人民共和国との外交関係はあるが、中華民国との外交関係はない。考えてみれば、実に馬鹿げた話だ。

私も含めて、多くの日本人が台湾を観光やビジネスで訪れている。逆に、台湾からも多くの観光客やビジネスマンが日本を訪れている。

国民同士も、お互いの好感度は高く、もしかしたら、台湾は、日本にとって最も良い関係を築いている国かもしれない。

それなのに、正式な外交関係はない。その原因は、勿論、中華民国と中華人民共和国の関係にある。

国家という制度が、現実の実情とかけ離れている、これはその典型的な例の一つだろう。

そんな、複雑な思いを抱きながら、総統府を後にした。

日本の総督府から中華民国の総統府へ

ノスタルジックな永康街の雰囲気を満喫した後、MRTを乗り継いで、総統府を目指した。

MRTの台大医院駅を降りて、228和平公園を抜けて歩いていくと、遠くに特徴的な建物が見えてきた。それが、総統府だった。

正式には、中華民国総統府、という名前で、中華民国の元首にあたる総統の官邸である。


この総統府は、毎日、午前中は1階部分を見学できるようになっている。1階には、総統府の歴史を紹介する見学コーナーや、その他のテーマ展示のコーナーなどがある。

さらに月に1回は、2階部分も見学できる日が設定されている。たまたま、台北を訪れた日がその日にあたっており、見学することができた。

外国人は、入り口でパスポートを見せてから入館する。ちょうど、地元の中学生と思しき団体も見学しており、入り口で記念撮影をする準備で、すったもんだしていた。


正面の入り口から中に入ると、まずは大きなホールが人々を迎える。天上まで吹き抜けで、白い壁の色が、この空間をより広く感じさせる。

ヨーロッパのような、金製品に溢れたゴージャス感はないが、所々、台湾らしい、南洋の植物も飾られて、特別な場所に来たのだな、と感じさせる。


正面の階段を上がりきった場所には、孫文の像があり、彼の有名な”天下為公”という言葉が彫られている。



この総統府は、もともとは、日本が台湾を統治していた時代に、統治の責任者だった総督の官邸として建てられた。

日本は、1895年の日清戦争後の馬関条約で、清国からこの台湾の統治を奪い取り、太平洋戦争で敗れる1945年まで台湾を支配した。

この建物は、伊東忠太、辰野金吾らといった錚々たるメンバーが審査員を務めたコンペで選ばれた長野宇平治によって設計された。1912年に着工され、1919年に完成した。

上空から建物を見ると、日本の”日”の形に見えるように設計されている。

建物は、戦時中のアメリカ軍の空襲で、大幅に破損した。共産党との戦いに破れ、台湾に逃れた国民党は、戦後にこの建物を修復し、この建物を引き続き総統府として利用することにした。

かつて、自分を支配していた国の象徴のような建物を、自分の国の元首の建物として使うということは、どういうことなのだろうか。

とりあえず、目の前にある有効な物は、何でも使ってしまおう、という現実的な発想なのかもしれない。

2014年2月22日土曜日

マンゴーから垣間見える台湾の複雑な歴史

台湾は、北部は亜熱帯、南部は熱帯地方に属するので、熱帯の果物も多い。

中でもマンゴーは、台湾の名物の一つ。マンゴーを使った多くのスイーツを、町中で手軽に楽しめる。


中でも、永康街にあるマンゴーキング(芒果皇帝)というお店は、台湾観光のガイドブックに必ず載っているほど有名。

お店は、MRT新蘆線の「東門」駅を降りて、すぐの所にある。回転が速いせいか、特に店頭に行列が出来るような雰囲気ではなかった。


入り口で注文すると、番号を書いた紙をくれる。見せの奥にある別のカウンターで、番号が表示されたら、それを受け取る、という、意外にシステマティックなシステムだった。


最初は、その量の多さに圧倒されるが、メニューにもよるが、かき氷が大量に使われているものが多く、食べると、意外とあっさりと食べきれる。

店内は意外に狭く、20〜30人程度しか、座れそうもない。お客は、観光客の姿も多いが、学校帰りの学生や、小さい子供連れの母親達など、地元の人々の姿も多い。

マンゴーは、もともとはインドが原産地だが、台湾を植民地にしていたポルトガルが、1561年にそのインドから台湾にマンゴーを持ち込んだ。現在では、南部の台南や高雄の周辺で栽培されている。

ポルトガルは、インドのゴアなど、その一部を植民地にしていた。

ポルトガルが、初めて台湾を訪れた1544年頃で、その島の美しさに、”麗しの島(イル・フォルモサ)”と叫んで、この島の名前にした。

今でも、海外では、台湾のことを、フォルモサと呼んでいるという。

ポルトガルは、その後、オランダとの争いに破れて、台湾は、オランダの植民地になった。

オランダは、中国の明との正式な協定により、1624年に台湾の領有を認められた。明にとっては、山ばかりで平地の少ないこの島は、外国との交渉の材料として使えるとはいえ、直接統治する対象とは考えていなかった。

マンゴーという、このおいしいフルーツの裏に、台湾の複雑な歴史が垣間見えるような気がする。

永康街で出会った動物愛護の活動

永康街にある、回留という店で昼食を終え、すぐ目の前にある公園を抜けようとしたら、犬の鳴き声が聞こえてきた。


そちらに目をやると、移動動物園のようなものが、ちょうど準備中だった。


立てかけてある看板の、漢字の意味を拾っていくと、どうも、放浪動物花園という、動物の愛護を訴えている代表による活動のようだ。


徐々に、会場の準備も進み、徐々に人が集まりだしてきた。

犬や猫などの動物と、直接触れ合ってもらい、動物愛護の活動への理解を求めるのが目的のようだ。


日本という国では、年間およそ17万頭(犬3万頭、猫14万頭、2011年統計)の犬と猫が、不当に殺されている。台湾の数字はよくわからない。

台湾にも日本と同じように、動物愛護法があり、罰則規定まで設けられているが、社会の実態は、日本とそれほど変わらないようだ。

動物に優しくない国は、人間にも優しくない国だと言っていいだろう。

放浪動物花園のホームページ

2014年2月15日土曜日

永康街の回留でベジタブルなランチ

永康街をブラブラするうちに、さすがにお腹が空いてきた。

特にお店は決めていなかったので、信義路の方に戻り、小さな公園まで来たところで、趣のあるお店を見つけた。


回留(フイリュウ)というオーガニック料理を提供する茶芸館。

九份で、台湾茶に魅力にはまってしまったため、是非、茶芸館でランチを食べたかった。

お店の入り口には、オーナーの一人、胡筱貞(Hu Hsiao-chen)さんの写真が大きなポスターで掲示されていた。右の人物で、日本の着物を着ている。


お店の雰囲気は、落ち着いている。入り口は、ショップになっており、奥に、お茶屋食事を出来るスペースがある。

オーナーの胡筱貞さんは、陶芸作家をしており、ショップでは、その陶芸作品や、多くの種類の茶葉が販売されていた。


ランチセットの中の一つを頼んだ。最初は、暖かいベジタブルスープ。こんにゃく、かぼちゃ、大根などが入っており、味は中華スープのような感じ。


続いて、前菜。サラダ、根菜のおひたし、など。


メインは、ベジタブル蒸しご飯、といったところだろうか。

鍋の底に、味のついたご飯をしいて、その上に、季節の野菜を詰め込んで、そのまま蓋をして、蒸らしました、といった感じ。

野菜がとにかく多い。下のご飯に行き着くまでに、かなりの時間を要した。


別にお茶を頼もうかと思い迷ったが、ランチについてるお茶で我慢した。

ウーロン茶だが、とにかく濃厚だった。


お昼を少し過ぎていたせいか、お客の入りは、ちょうどいい感じ。

観光客、近所の住人と思しきグループ、仕事に関すて打ち合わせているような人々と、お客は様々。

一人連れの日本人女性が、お茶のコースを頼んでいた。

回留(フイリュウ)のホームページ

ノスタルジックな永康街

孫文を記念する、中山記念館から、MRTを乗り継いで、MRT新蘆線の「東門」駅へ。駅を降りてすぐの所にある、永康街へ向かった。


永康街は、世界的に有名で、日本に支店もある点心のお店、鼎泰豊があることで知られている。鼎泰豊だけでなく、多くの台湾料理の名店があり、台北の中でも有数の観光スポットになっている。

これまで、近くにMRTの駅がなく、行きにくかったが、最近、MRT新蘆線に「東門」駅という新駅が完成し、俄然行きやすくなった。


永康街は、大きな信義路という通りから横に伸びている小道だが、通りの両側には、大きな有名店から、店頭でできたてのB級グルメを売っている小さなお店など、多くのお店が連なっている。


少し奥の方に行くと、徐々に住宅街になってくる。台湾らしい、緑色を基調とした、色鮮やかな建物が印象的。


日本は、日清戦争後の1895年に、清から独立して、台湾民主国を建国したばかりの混乱期にある台湾に侵攻し、1945年まで植民地として統治していた。

この永康街は、その当時、昭和町と呼ばれ、多くの日本人が住んでいた。当時の建物は、今もいくつか残されていて、街を歩いていると、所々に瓦屋根の家々が点在している。

そうした歴史的な建物を紹介している、案内図のパネルが、広場に建てられていた。


そうした雰囲気のせいか、何となく、昭和時代にカムバックしたような、不思議な感覚を覚える。

時々、路地を通り過ぎる際に、思わず立ち止まってしまう。

子供の頃、こうした路地で、缶蹴りをしたり、メンコ飛ばしをしたり、よく遊んだなあ。

まさか、台北の街の片隅で、このようなノスタルジックに教われることになるとは、夢にも思わなかった。


信義路から離れておくに行くほど、観光地ではない、普段着通りの人々の暮らしの場が見えてくる。

ブラブラとしていると、何ともいえないいい気持ちになってくる。

永康街という所は、時間が許せば、一日中でも、のんびりと過ごせそうな、そんな味わいの深い街だ。

2014年2月11日火曜日

孫文という人物について

国父記念館の、孫文の銅像のすぐ右手には、写真や手記、当時の書籍などから、孫文の生涯をたどれる部屋がある。


孫文は、1866年、清の年号で同治5年に、広東省の客家の農家に生まれた。その後、ハワイにいた兄をたより、その地で学校に通い、西洋的な考え方を身につけた。この経験が、孫文の将来を決めたと言っていい。

帰国後、香港で医学を学び、マカオで医者として開業する。すでにこの時点で、孫文の活動範囲の広さを感じさせる。

外国の列強に圧され、劣勢に立っていた清国の状況を憂いて、次第に革命活動にのめり込んでいく。その中で、迫害を逃れ日本を何度か訪れ、宮崎滔天、頭山満、犬養毅らの多くの日本人と交流した。

アメリカで国籍を取得し、イギリスにも渡り、革命のための資金を広く募った。世界中に、客家といわれる中国人が暮らしている。孫文は、そうした人々に支援を求めた。

孫文らの活躍により、1912年、辛亥革命が起こり、アメリカから戻った孫文は、南京に成立した中華民国の臨時大統領となった。


資料を展示している部屋の一面には、孫文が書いた、中華民国の憲法が、全文、彫り込まれていた。

孫文は、その後、中国北部の軍閥の実力者、袁世凱に大統領の座を譲った。その後、中華民国と新生中国は、長い混乱の時代、そして共産党との内戦に突入する。

1925年、孫文は、道半ばにして、北京で59才で亡くなった。

革命尚未成功。革命、なお未だ成功せず。

孫文の最後の言葉として知られている言葉である。孫文の唱えた三民主義は、民族主義、民権主義、民生主義のことをいう。

この民権主義を、革命の目標として定義するならば、果たして、今の中国は、革命を果たしたと言えるのだろうか?


国父記念館の建物の踊り場では、地元の若い子供たちが、熱心にダンスの練習を行っていた。

この旅の最後で、私は再び、孫文と出会うことになる。