2014年2月11日火曜日

孫文という人物について

国父記念館の、孫文の銅像のすぐ右手には、写真や手記、当時の書籍などから、孫文の生涯をたどれる部屋がある。


孫文は、1866年、清の年号で同治5年に、広東省の客家の農家に生まれた。その後、ハワイにいた兄をたより、その地で学校に通い、西洋的な考え方を身につけた。この経験が、孫文の将来を決めたと言っていい。

帰国後、香港で医学を学び、マカオで医者として開業する。すでにこの時点で、孫文の活動範囲の広さを感じさせる。

外国の列強に圧され、劣勢に立っていた清国の状況を憂いて、次第に革命活動にのめり込んでいく。その中で、迫害を逃れ日本を何度か訪れ、宮崎滔天、頭山満、犬養毅らの多くの日本人と交流した。

アメリカで国籍を取得し、イギリスにも渡り、革命のための資金を広く募った。世界中に、客家といわれる中国人が暮らしている。孫文は、そうした人々に支援を求めた。

孫文らの活躍により、1912年、辛亥革命が起こり、アメリカから戻った孫文は、南京に成立した中華民国の臨時大統領となった。


資料を展示している部屋の一面には、孫文が書いた、中華民国の憲法が、全文、彫り込まれていた。

孫文は、その後、中国北部の軍閥の実力者、袁世凱に大統領の座を譲った。その後、中華民国と新生中国は、長い混乱の時代、そして共産党との内戦に突入する。

1925年、孫文は、道半ばにして、北京で59才で亡くなった。

革命尚未成功。革命、なお未だ成功せず。

孫文の最後の言葉として知られている言葉である。孫文の唱えた三民主義は、民族主義、民権主義、民生主義のことをいう。

この民権主義を、革命の目標として定義するならば、果たして、今の中国は、革命を果たしたと言えるのだろうか?


国父記念館の建物の踊り場では、地元の若い子供たちが、熱心にダンスの練習を行っていた。

この旅の最後で、私は再び、孫文と出会うことになる。

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