2014年8月16日土曜日

台北戯棚で京劇を鑑賞する

台北の最後の夜。市内にある、台北戯棚という所で、京劇を鑑賞した。

場所は、MRT淡水線の雙連という駅から、歩いて10〜15分ほどだった。中山北路という大きな通り沿いにあるので、すぐに見つかった。

大きなビルの中にあり、ビルのエントランスを入ると、関係者が大勢で来場者を迎えている。とてもいい”おもてなし”だ。

エレベーターで3階に上がり、劇場に入る。こじんまりとした劇場で、500〜600人ほど収容できるくらいだろうか。


この日のプログラムは、前半は操り人形による劇。そして後半が京劇だった。

ここに来る前は、京劇だけに関心があり、その前座とも言える、この操り人形劇にはあまり期待していなかったが、実際に目にしてみて、その技術の高さに驚かされた。


意図で操っている人形が、ブランコに乗ったり、扇子などの者を扱ったり、穴をあけて糸に通しているボールで遊んだりする。

ちゃんとしたストーリーもあり、浮気でお酒好きな夫を、しっかり者の妻が、まるで操り人形のように、夫を巧く操る、というわかりやすいストーリー。

実際も夫婦なのだろうか?と思われる男女の二人が、巧みに人形を操り、会場には笑いが絶えなかった。


そして、後半は、京劇。

この日の出し物は、金銭豹、という西遊記の中の物語。妖怪、金銭豹に娘を嫁がせる約束をさせられた親子を、孫悟空の一行が救う、というストーリー。

この京劇の主役は、孫悟空ではなく、悪役の金銭豹。上の写真のように、黒をベースにしたきらびやかな衣装をまとい、華麗でアクロバティックな踊りを展開する。

特に、長い剣を使った踊りは圧巻。一歩間違えば、大きな怪我をしてしまうそうだが、巧みに剣を扱い、観客をハラハラさせる。


上の写真は、劇のクライマックス。孫悟空と金銭豹の対決のシーン。中央にいるのが、別な衣装に着替えた金銭豹で、そのすぐ左隣で、黄色い衣装を着てポーズを決めているのが、孫悟空。

金銭豹の部下たちも入り乱れての格闘シーンは、全員の息が見事にピッタリとあって、素早い動きで、交錯しながら戦うシーンも、見事に決めた。

豚の面を被った猪八戒は、コミカルな演技で、所々で笑いを巻き起こし、観客の緊張を和らげる。

この台北戯棚は、元は台湾を占領していた日本人が所有する劇場だったが、台湾の実業家、辜顕栄が買い取って、中国の伝統的な芸術を演じる劇団に生まれ変わった。

この劇場が入っているビルは、辜顕栄の一族が経営する企業のビルでもあるという。

ショーが終わると、出演者が全員で、観客を見送りする。希望すれば、いっしょに記念撮影もしてくれる。

伝統的な中国の京劇などの演劇を、現代的な視点も入れて、観光客を中心に楽しませようとするその姿勢には、非常に好感を感じた。

2014年8月15日金曜日

中正記念堂における蒋介石

89段の階段を上り、中正記念堂の内部へ。

いきなり、大きな銅像が来場者を迎える。いや、迎えるというよりは、威圧している、といった方がいいかもしれない。


文字通りの、個人崇拝。日本にも、偉人の銅像などはよく見かけるが、これほど大きなものはない。

皮肉にも、この蒋介石の巨大な銅像の存在は、台湾において、蒋介石が単なる独裁者であった、ということを、悪い意味で証明している。


最上階の蒋介石の銅像を”拝んだ”あとは、建物の中を下りながら、見学路が進んでいく。

各階には、書や絵画の展覧会が開かれる、大きなホールなどがあった。

1階部分は、蒋介石にゆかりの品々が展示されていて、さながら、蒋介石博物館、といったところ。


見学コースの最後の部屋は、蒋介石の執務室をそのまま再現した部屋になっていた。

蒋介石という人物は、実に興味深い人物だ。

早くから、孫文に指示し、いわゆる”大物”が次々に倒れていく中で、次第に頭角を現し、やがて、孫文から、自分の後継者と目されるようになった。

二番目の妻だった宋美齢は、孫文の妻、宋慶齢の妹だった。裕福な客家の娘で、学生時代はアメリカに留学し、英語が流暢だった宋美齢は、欧米の指導者たちとも交流し、国民党の存在を、国際的に位置付けるのに大きく貢献した。

蒋介石は、派手な生活を好んだ妻とは対照的で、酒もタバコもせず、中華民国の総統となった以降も、生涯、生真面目な性格のままだった、という。

日本との関係も深く、盧溝橋事件で日中が全面戦争に突入する以前は、犬養毅らの日本の政治家たちとも交流を持っていた。

台湾へ移ってからは、日本の旧軍人を雇い、台湾の中華民国の軍人の教育にあたらせたという。

その人物像からは、独裁者、というイメージは思い浮かばない。しかし、彼がこの島で行った行動は、文字通り、独裁者そのものだった。


この日の午後、総統府、二二八記念館、そしてこの中正記念堂と足早に見学し、さすがに疲れきって、中正記念堂の1階のイスでしばしの休憩を取った。

天上を見上げると、そこには、中正記念堂の文字を上手にデザインした灯があった。

蒋介石を記念する中世記念堂へ

228記念館を出て、二二八公園を抜けて、中正記念堂へ向かった。入口までは、歩いて10分ほど。


途中の交差点に、大きな門があった。

台北は、清の統治時代に、城壁で囲まれた城壁都市だった。これは、その時代の東門を再建したもの。北門は、今も光緖帝の時代の門が残っている。


東門の交差点を右折すると、左手に、訪れる人を威圧するような、大きな白い門が見えてきた。これが、中正記念堂への入口だ。

門の上には、”自由広場”と書かれているが、その威圧的な雰囲気から、”自由”という言葉は、似つかわしくないように思える。誰にとっての自由なのか?


門をくぐると、広大な空間の向こうに、白い建物が見える。その雰囲気は、まるで、北京の紫禁城のようだ。

広場の左手と右手には、茶色の瓦屋根と、赤い柱が印象的で、これまた巨大な建物が、双子の兄弟のように建っている。

それぞれ、コンサートホールと劇場で、台湾の一流のアーティストや、海外からの大物のコンサートや公演が行われる。


広場の一番奥には、白亜の建物がそびえ立っている。これが、中正記念堂だ。

中正記念堂は、本土における共産党との戦いに敗れ、台湾に逃れ、この地を支配した、国民党の蒋介石を記念して、1980年に作られた。中正とは、蒋介石のこと。

その後、2000年に、それまでずっと続いてきた国民党から民主進歩党の政権に変わり、新政権は、この建物の名前を、台湾民主記念館と変更した。

民主進歩党によれば、蒋介石は二二八事件の責任者であり、その人物の名前が付いているのは、好ましくない、ということなのだろう。

しかし、この施設は、紛れもなく、蒋介石を称えるために作られた施設だ。

上に上るための階段は、89段あるが、これは、蒋介石が亡くなった年齢に等しい。

2008年に、国民党は政権に返り咲き、この施設の名前も、もとの中正記念堂に戻った。

2014年4月26日土曜日

228記念館から持ち帰ったもの

228記念館の2階部分は、デザインが見事で、幻想的な雰囲気に包まれていた。


戦後の混乱の中で、二・二八事件は起こった。その後、1年4ヶ月に渡って続くことになる大事件の発端は、実に些細なものだった。

1947年2月27日。闇タバコを扱っていた一人の台湾人が、検挙され、生活の窮状を訴え嘆願したものの、警察官に銃で頭を殴られ、流血するという事件が発生した。


当時は、台湾で暮らす誰もが、厳しい暮らしを送っていた。闇商売を行うしか、暮らしていけないという状況は、決して他人事ではなく、皆、同じような境遇に置かれていた。

その事件に対する台湾人の反発は、一気に台湾全土に広がり、各地でデモや暴動が起こった。


国民党政府は、戒厳令を発令し、軍隊でそうした暴動を鎮圧し、自治を求めるリーダー達を多数検挙、厳しく尋問、拷問などを行い、結果的に、事件による死亡者は、2万8千人に上った。

その中には、政治家の他にも、裁判官、学者、起業家、教師など、台湾の自治をリードすべき人々が多く含まれていた。

館内には、そうして亡くなった人々の写真を始め、手記や出版物などの記録が、多数展示されている。


二・二八事件は、長く台湾にとってはタブーだった。しかし、1989年に公開された『非情城市』が、その状況を生々しく映像で再現し、世界的に注目されたことで、状況は少しづつ変わっていった。

1996年、後に台湾の総統になる、当時の台北市の市長だった陳水扁によって、台北新北公園は、二二八和平記念公園と名前が変えられ、その中に、228記念館と、犠牲になった人々を追悼するための記念碑が建てられることになった。

台湾を、観光目的で訪れる人の中で、この公園や記念館を訪れる人は、おそらく少ないに違いない。

しかし、少し違った、旅行の思い出を残したい人は、この公園と記念館を、是非訪れてみて欲しい。

ここを訪れた人は、何か大切なものを、持ち帰ることが出来るはずだ。

228記念館へ

総統府を出て、しばらく歩くと、左手に大きな公演が見えてくる。二二八和平公園というところで、日本の占領時代に作られ、その当時は、台北新北公園と呼ばれていた。

広大な敷地の中には、中国風の庭園や、国立の台湾博物館などが建てられている。その公園の中に、228記念館があった。


この度の最初に、九份を訪れた。そこは、映画『非情城市』の舞台だったが、その映画は、台湾の現代史に、大きなくらい影を落としている、二・二八事件を描いたものだった。

228記念館の近づいていくと、何やら音楽が聞こえてきた。丁度、市民コンサートが記念館の前で開催されており、多くの人が、折りたたみに椅子に座って、クラシック音楽に耳を傾けている。


「日本人の方ですか?」

館内に入ると、初老の男性が、親しげに流暢な日本語で話しかけてきて驚いた。

日本の占領時代に、少年時代を過ごしたというその人物は、丁寧に記念館の説明をしてくれた。この建物は、日本の占領時代は、台湾ラジオ放送局として使われていたという。

今も、その放送室が記念として残されている。この放送局からは、いわゆる昭和天皇の玉音放送が台湾全土に流された。

「日本人が台湾にいた時代はとても良かった。今よりも、ずっと良かった・・・」

その人は、しみじみと、最後にそうつぶやいた。


館内の展示は、二・二八事件だけに限ったものではなく、日本の占領下における、台湾の人の自治運動の紹介から始まっている。

古びた外観とは異なり、内部はきれいに改装されていて、落ち着いた色合いで統一されている。

自治運動は、1920年代から活発になった。その流れは、戦後の二・二八事件にもつながっている。


日本の敗戦後、台湾の地には、大陸から蒋介石の国民党政権がやってきた。

残念ながら、新しい体制の中には、台湾の人々の活躍する余地は無かった。要職は、すべて大陸からやってきた、国民党の人々によって占められ、台湾人による自治、という理想とは、ほど遠いものだった。

展示コーナーは、そのまま2階に続いていた。

2014年3月16日日曜日

総統府にて台湾の外交関係を考える

総統府の2階の見学コースを進む。

建物は、日本の大正時代に設計されている。いわゆる、大正ロマンのようなノスタルジックな気分に襲われる。

壁は、白一色で、窓枠の木組みの濃い茶色とのコントラストが美しい。


さらに奥に進むと、大きなホールに入った。ここでは、セレモニーやパーティーなどが行われるようだ。

現在の総統の馬英九、以前の李登輝、という歴代の総統の等身大の写真が置かれており、その写真と握手して、記念撮影できるようになっている。

花壇には、孫文の写真が飾られており、台湾における孫文の存在の大きさが、改めて印象つけられる。


2階から1階へと下りる階段。その雰囲気が実にいい。


1階には、この総統府の建物の建築や再建の経緯、そして、中華民国の歴史などが、模型やパネル、写真などによって紹介されている。

この1階の展示部分は、月に一度の特別公開でなくても、毎日午前中には一般公開されている。


その展示の中で、印象に残ったのは、中華民国の外交についてのコーナーだった。中華民国は、本土の中華人民共和国との関係が足かせになっていて、外交を結んでいる国がわずか、23国しかない。

その国名を見ると、ソロモン諸島などの太平洋諸島の国々、ドミニカ共和国などの中南米・カリブ海の国々がほとんで、それ以外の、いわゆる普通の国々は、皆、中華人民共和国との外交関係を持っている。

日本も、同様に、本土の中華人民共和国との外交関係はあるが、中華民国との外交関係はない。考えてみれば、実に馬鹿げた話だ。

私も含めて、多くの日本人が台湾を観光やビジネスで訪れている。逆に、台湾からも多くの観光客やビジネスマンが日本を訪れている。

国民同士も、お互いの好感度は高く、もしかしたら、台湾は、日本にとって最も良い関係を築いている国かもしれない。

それなのに、正式な外交関係はない。その原因は、勿論、中華民国と中華人民共和国の関係にある。

国家という制度が、現実の実情とかけ離れている、これはその典型的な例の一つだろう。

そんな、複雑な思いを抱きながら、総統府を後にした。

日本の総督府から中華民国の総統府へ

ノスタルジックな永康街の雰囲気を満喫した後、MRTを乗り継いで、総統府を目指した。

MRTの台大医院駅を降りて、228和平公園を抜けて歩いていくと、遠くに特徴的な建物が見えてきた。それが、総統府だった。

正式には、中華民国総統府、という名前で、中華民国の元首にあたる総統の官邸である。


この総統府は、毎日、午前中は1階部分を見学できるようになっている。1階には、総統府の歴史を紹介する見学コーナーや、その他のテーマ展示のコーナーなどがある。

さらに月に1回は、2階部分も見学できる日が設定されている。たまたま、台北を訪れた日がその日にあたっており、見学することができた。

外国人は、入り口でパスポートを見せてから入館する。ちょうど、地元の中学生と思しき団体も見学しており、入り口で記念撮影をする準備で、すったもんだしていた。


正面の入り口から中に入ると、まずは大きなホールが人々を迎える。天上まで吹き抜けで、白い壁の色が、この空間をより広く感じさせる。

ヨーロッパのような、金製品に溢れたゴージャス感はないが、所々、台湾らしい、南洋の植物も飾られて、特別な場所に来たのだな、と感じさせる。


正面の階段を上がりきった場所には、孫文の像があり、彼の有名な”天下為公”という言葉が彫られている。



この総統府は、もともとは、日本が台湾を統治していた時代に、統治の責任者だった総督の官邸として建てられた。

日本は、1895年の日清戦争後の馬関条約で、清国からこの台湾の統治を奪い取り、太平洋戦争で敗れる1945年まで台湾を支配した。

この建物は、伊東忠太、辰野金吾らといった錚々たるメンバーが審査員を務めたコンペで選ばれた長野宇平治によって設計された。1912年に着工され、1919年に完成した。

上空から建物を見ると、日本の”日”の形に見えるように設計されている。

建物は、戦時中のアメリカ軍の空襲で、大幅に破損した。共産党との戦いに破れ、台湾に逃れた国民党は、戦後にこの建物を修復し、この建物を引き続き総統府として利用することにした。

かつて、自分を支配していた国の象徴のような建物を、自分の国の元首の建物として使うということは、どういうことなのだろうか。

とりあえず、目の前にある有効な物は、何でも使ってしまおう、という現実的な発想なのかもしれない。

2014年2月22日土曜日

マンゴーから垣間見える台湾の複雑な歴史

台湾は、北部は亜熱帯、南部は熱帯地方に属するので、熱帯の果物も多い。

中でもマンゴーは、台湾の名物の一つ。マンゴーを使った多くのスイーツを、町中で手軽に楽しめる。


中でも、永康街にあるマンゴーキング(芒果皇帝)というお店は、台湾観光のガイドブックに必ず載っているほど有名。

お店は、MRT新蘆線の「東門」駅を降りて、すぐの所にある。回転が速いせいか、特に店頭に行列が出来るような雰囲気ではなかった。


入り口で注文すると、番号を書いた紙をくれる。見せの奥にある別のカウンターで、番号が表示されたら、それを受け取る、という、意外にシステマティックなシステムだった。


最初は、その量の多さに圧倒されるが、メニューにもよるが、かき氷が大量に使われているものが多く、食べると、意外とあっさりと食べきれる。

店内は意外に狭く、20〜30人程度しか、座れそうもない。お客は、観光客の姿も多いが、学校帰りの学生や、小さい子供連れの母親達など、地元の人々の姿も多い。

マンゴーは、もともとはインドが原産地だが、台湾を植民地にしていたポルトガルが、1561年にそのインドから台湾にマンゴーを持ち込んだ。現在では、南部の台南や高雄の周辺で栽培されている。

ポルトガルは、インドのゴアなど、その一部を植民地にしていた。

ポルトガルが、初めて台湾を訪れた1544年頃で、その島の美しさに、”麗しの島(イル・フォルモサ)”と叫んで、この島の名前にした。

今でも、海外では、台湾のことを、フォルモサと呼んでいるという。

ポルトガルは、その後、オランダとの争いに破れて、台湾は、オランダの植民地になった。

オランダは、中国の明との正式な協定により、1624年に台湾の領有を認められた。明にとっては、山ばかりで平地の少ないこの島は、外国との交渉の材料として使えるとはいえ、直接統治する対象とは考えていなかった。

マンゴーという、このおいしいフルーツの裏に、台湾の複雑な歴史が垣間見えるような気がする。

永康街で出会った動物愛護の活動

永康街にある、回留という店で昼食を終え、すぐ目の前にある公園を抜けようとしたら、犬の鳴き声が聞こえてきた。


そちらに目をやると、移動動物園のようなものが、ちょうど準備中だった。


立てかけてある看板の、漢字の意味を拾っていくと、どうも、放浪動物花園という、動物の愛護を訴えている代表による活動のようだ。


徐々に、会場の準備も進み、徐々に人が集まりだしてきた。

犬や猫などの動物と、直接触れ合ってもらい、動物愛護の活動への理解を求めるのが目的のようだ。


日本という国では、年間およそ17万頭(犬3万頭、猫14万頭、2011年統計)の犬と猫が、不当に殺されている。台湾の数字はよくわからない。

台湾にも日本と同じように、動物愛護法があり、罰則規定まで設けられているが、社会の実態は、日本とそれほど変わらないようだ。

動物に優しくない国は、人間にも優しくない国だと言っていいだろう。

放浪動物花園のホームページ

2014年2月15日土曜日

永康街の回留でベジタブルなランチ

永康街をブラブラするうちに、さすがにお腹が空いてきた。

特にお店は決めていなかったので、信義路の方に戻り、小さな公園まで来たところで、趣のあるお店を見つけた。


回留(フイリュウ)というオーガニック料理を提供する茶芸館。

九份で、台湾茶に魅力にはまってしまったため、是非、茶芸館でランチを食べたかった。

お店の入り口には、オーナーの一人、胡筱貞(Hu Hsiao-chen)さんの写真が大きなポスターで掲示されていた。右の人物で、日本の着物を着ている。


お店の雰囲気は、落ち着いている。入り口は、ショップになっており、奥に、お茶屋食事を出来るスペースがある。

オーナーの胡筱貞さんは、陶芸作家をしており、ショップでは、その陶芸作品や、多くの種類の茶葉が販売されていた。


ランチセットの中の一つを頼んだ。最初は、暖かいベジタブルスープ。こんにゃく、かぼちゃ、大根などが入っており、味は中華スープのような感じ。


続いて、前菜。サラダ、根菜のおひたし、など。


メインは、ベジタブル蒸しご飯、といったところだろうか。

鍋の底に、味のついたご飯をしいて、その上に、季節の野菜を詰め込んで、そのまま蓋をして、蒸らしました、といった感じ。

野菜がとにかく多い。下のご飯に行き着くまでに、かなりの時間を要した。


別にお茶を頼もうかと思い迷ったが、ランチについてるお茶で我慢した。

ウーロン茶だが、とにかく濃厚だった。


お昼を少し過ぎていたせいか、お客の入りは、ちょうどいい感じ。

観光客、近所の住人と思しきグループ、仕事に関すて打ち合わせているような人々と、お客は様々。

一人連れの日本人女性が、お茶のコースを頼んでいた。

回留(フイリュウ)のホームページ

ノスタルジックな永康街

孫文を記念する、中山記念館から、MRTを乗り継いで、MRT新蘆線の「東門」駅へ。駅を降りてすぐの所にある、永康街へ向かった。


永康街は、世界的に有名で、日本に支店もある点心のお店、鼎泰豊があることで知られている。鼎泰豊だけでなく、多くの台湾料理の名店があり、台北の中でも有数の観光スポットになっている。

これまで、近くにMRTの駅がなく、行きにくかったが、最近、MRT新蘆線に「東門」駅という新駅が完成し、俄然行きやすくなった。


永康街は、大きな信義路という通りから横に伸びている小道だが、通りの両側には、大きな有名店から、店頭でできたてのB級グルメを売っている小さなお店など、多くのお店が連なっている。


少し奥の方に行くと、徐々に住宅街になってくる。台湾らしい、緑色を基調とした、色鮮やかな建物が印象的。


日本は、日清戦争後の1895年に、清から独立して、台湾民主国を建国したばかりの混乱期にある台湾に侵攻し、1945年まで植民地として統治していた。

この永康街は、その当時、昭和町と呼ばれ、多くの日本人が住んでいた。当時の建物は、今もいくつか残されていて、街を歩いていると、所々に瓦屋根の家々が点在している。

そうした歴史的な建物を紹介している、案内図のパネルが、広場に建てられていた。


そうした雰囲気のせいか、何となく、昭和時代にカムバックしたような、不思議な感覚を覚える。

時々、路地を通り過ぎる際に、思わず立ち止まってしまう。

子供の頃、こうした路地で、缶蹴りをしたり、メンコ飛ばしをしたり、よく遊んだなあ。

まさか、台北の街の片隅で、このようなノスタルジックに教われることになるとは、夢にも思わなかった。


信義路から離れておくに行くほど、観光地ではない、普段着通りの人々の暮らしの場が見えてくる。

ブラブラとしていると、何ともいえないいい気持ちになってくる。

永康街という所は、時間が許せば、一日中でも、のんびりと過ごせそうな、そんな味わいの深い街だ。

2014年2月11日火曜日

孫文という人物について

国父記念館の、孫文の銅像のすぐ右手には、写真や手記、当時の書籍などから、孫文の生涯をたどれる部屋がある。


孫文は、1866年、清の年号で同治5年に、広東省の客家の農家に生まれた。その後、ハワイにいた兄をたより、その地で学校に通い、西洋的な考え方を身につけた。この経験が、孫文の将来を決めたと言っていい。

帰国後、香港で医学を学び、マカオで医者として開業する。すでにこの時点で、孫文の活動範囲の広さを感じさせる。

外国の列強に圧され、劣勢に立っていた清国の状況を憂いて、次第に革命活動にのめり込んでいく。その中で、迫害を逃れ日本を何度か訪れ、宮崎滔天、頭山満、犬養毅らの多くの日本人と交流した。

アメリカで国籍を取得し、イギリスにも渡り、革命のための資金を広く募った。世界中に、客家といわれる中国人が暮らしている。孫文は、そうした人々に支援を求めた。

孫文らの活躍により、1912年、辛亥革命が起こり、アメリカから戻った孫文は、南京に成立した中華民国の臨時大統領となった。


資料を展示している部屋の一面には、孫文が書いた、中華民国の憲法が、全文、彫り込まれていた。

孫文は、その後、中国北部の軍閥の実力者、袁世凱に大統領の座を譲った。その後、中華民国と新生中国は、長い混乱の時代、そして共産党との内戦に突入する。

1925年、孫文は、道半ばにして、北京で59才で亡くなった。

革命尚未成功。革命、なお未だ成功せず。

孫文の最後の言葉として知られている言葉である。孫文の唱えた三民主義は、民族主義、民権主義、民生主義のことをいう。

この民権主義を、革命の目標として定義するならば、果たして、今の中国は、革命を果たしたと言えるのだろうか?


国父記念館の建物の踊り場では、地元の若い子供たちが、熱心にダンスの練習を行っていた。

この旅の最後で、私は再び、孫文と出会うことになる。