2013年12月23日月曜日

故宮博物院の陶磁器コレクション


故宮博物院の3階をほぼ見て回ったので、2階に向かった。

故宮博物院の第一展覧エリアといわれる、メインの建物の真ん中は、大きな吹き抜けになっている。その吹き抜けの周囲が階段になっていて、他にも、エレベーターや、非常階段がいくつかあり、階の移動は容易。

2階には、陶磁器のコーナー、書画のコーナーなどがある。

陶磁器ほど、中国の歴史の流れをよく表している物は、他にないだろう。

陶磁器の展示コーナーに入ると、まず、新石器時代の磁器が並んでいる。仰韶文化の彩陶、竜山文化の黒陶。高校時代に世界史で暗記させられた、その現物が、目の前にある。

唐の時代になると、いわゆる唐三彩が登場する。西域のソグド人を表した唐三彩は、世界帝国だった唐の特徴をよく表している。

陶磁器の展示コーナーのハイライトともいえる、宋時代の青磁のコーナー。さすがに凄い人出。団体客が、入れ替わり立ち替わり、その展示品の前を陣取って行く。

いろいろなタイプのガイドがいる。中国語、韓国語、日本語が飛び交う。皆、自分の持っている、青磁に対するありったけの知識を、ツアー客たちに対して披露している。

この故宮博物院の中で、もっとも有名な陶磁器が、北宋 汝窯 青磁無文水仙盆。この盆の前には、人影が途切れることがない。誰もが、ガラスに顔をへばりつけて、食い入るように見つめては、風のように去って行く。

それは、細長い丸いお盆の形をしている。何よりも、その色が見事。青磁というが、今の感覚で言えば、薄緑色。最高の青磁の青は、空の色をよく表すといわれるが、正直言って、どれも、空の青のようには見えない。

汝窯という窯は、宋の皇帝直営の窯の1つだったが、北の異民族、金の侵攻を受けて都を南に移動したため、わずか20年ほどしか使われなかった。故宮博物院にも、汝窯の作品は、20点ほどしか残っていない。

南宋に逃れた宋の皇帝たちは、そうした青磁を眺めながら、失われた、かつての都、開封で暮らしていた当時のことを懐かしんだ。

この小さな器は、およそ1000年にも渡る歴史の中で、あまりにも多くの人の思いを、受け入れてきたように見える。

明の時代になると、龍泉窯、景徳鎮窯という、あまりにも有名な窯が皇帝の手によって作られ、白地に龍や華やかな絵柄が描かれた、華麗な陶磁器が登場する。

特に、白地に青色の模様が描かれた青花は、西方にも大量に輸出された。イスタンブールのトプカプ宮殿には、今も、膨大な青花のコレクションを見ることができる。

清の時代になると、赤、青、黄、などの五彩の華やかな地の上に、より精巧でカラフルな絵柄の陶磁器が多い。この時代には、西洋の影響も表れてくる。あきらかに、西洋的な人物像が描かれている。

陶磁器のコーナーは、2階全体のほぼ半分を占め、最も展示スペースが多い。全部を見終わると、さすがに疲れ、小休止したくなる。新石器時代から、清の時代まで、陶磁器の歴史は、中国の歴史そのものだった。

故宮博物院の玉器コレクション


故宮博物院の3階には、青銅器と並んで、玉器の展示コーナーがある。

中国の歴代の皇帝が、最も愛した文物は、玉だった。

石が欠け、木が朽ちてしまっても、玉は、その輝きを永遠に保ち続ける。その表面は、なめらかで、瑞々しささえ感じる。

玉の中に、権力者たちは、自分の永遠の若さを、自らの帝国の永遠の繁栄を、重ねあわせたのだろう。

台湾の旅行ガイドブックの故宮博物院の紹介で、必ず写真付きで紹介される有名なコレクションは、翠玉白菜と、肉形石といわれる玉器。いずれも清の時代に作られている。

この2つは、3階の中央付近にある特別展示コーナーに展示されていた。

さすがに凄い人出。特に、翠玉白菜の周りには、人々が群がっており、遠目にしか拝めない。一度、断念し、残りの階を見た後で再び訪れると、今度は幸いにそれほど混雑しておらず、じっくりと、その神業を堪能することができた。

翠玉白菜は、もともと、白と緑色が混ざりあった翡翠だった。それを、潔白を象徴する白菜を花嫁に見立て、緑色の部分に、帝国の繁栄、多産を象徴するキリギリスを驚くべき技術で彫り込んでいる。

もう一方の肉形石は、層になった碧玉をもとに作られ、もともとあった層を活かしながら、表面に色を付けて、豚の角煮のように仕上げている。

いずれも、堅い玉を、柔らかい食べ物に模しているのが面白い。

通常の玉器の展示コーナーには、新石器時代から清時代までの、中国の歴史全体をカバーする、玉器の数々が展示されている。

玉は、古代は霊が宿っているとされ、儒教が広まってからは、それを身につける人には、徳が身に付くとされた。

展示品を見ていくと、古代の玉器は、加工はそれほど行われず、玉そのものの神秘性を尊んでいるようだが、時代が下るにつれて、加工の技術はより洗練されていく。その頂点が、翠玉白菜と言えるだろう。

日本は、中国の陶磁器、水墨画、書などを尊び、それを手に入れ、自らもその作成方法を習得し、今日まで伝えている。

しかし、玉だけは、古代日本においては、勾玉などの形で珍重したが、その後は、それほど広まらなかった。そこに、中国と日本の、人々の心のはたらきの違いを見て取れる。

故宮博物院の青銅器コレクション


故宮博物院の入口に向かうアプローチの最後に、大きな青銅器のオブジェが展示されていた。これは、亜醜方鼎という商時代の晩期の青銅器をモデルに作られている。

鼎は、古代中国においては、最も権威のある神器であり、王朝が変わると、新たに鼎が作られた。

わざわざ、このオブジェを、ここに飾っているということは、台湾の中華民国こそが、正統なる中国の支配者である、ということの強烈なアピールでもある。

この場所から、階段を上がると、メインの建物である第一展覧エリアの入口の正面に出る。多くの人が記念撮影などを行っているが、まだ時間が早いこともあり、それほど混雑している、という雰囲気でもない。

建物を入ると、正面にチケットの売店と、そのすぐ隣に展示室への入口がある。

第一展覧エリアは、3階建てになっている。特に決まったルートはなく、好きな順番で回ることができる。各種のガイドブックには、それぞれお勧めの見学ルートなどが紹介されている。

故宮博物院では、ゆっくりと時間を取っているので、3階から、2階、1階と順々に見学することにした。

青銅器の展示コーナーは、3階にある。

西周時代に作られた、毛公鼎という青銅器には、その内部に500文字以上の漢字、金文が彫られている。現在までに見つかっている青銅器の中で、最も多い文字数。

毛公という人物は、すでに勢いが衰えていた西周の宣王を支えた人物だった。刻まれた名文の中で、宣王は、毛公に対して、命を賭して自分を支えるように懇願している。

この鼎は、毛公が、自分が如何に宣王に信頼されていたかを、神々に伝え、同時に後世に伝えるために作ったのだろう。青銅器は、歴史を記録する道具でもあった。

この鼎と、宗周鐘という2つの青銅器は、3階の特設コーナーに展示されていた。

宗周鐘は、上記の宣王の先代、厲王が、南方の周辺国を制圧したことを神々に報告し、末永く、周の天下が続くことを祈願して作られた。

宗周鐘は、文字通り鐘で、ちょうど日本の銅鐸のような形をしている。その表面に、そうした内容の銘文が彫られている。

自分の目の前に展示されている、それらの青銅器たちに記された銘文よって、私たちが知る中国の古代の歴史が書かれている。

歴史の証人とも、歴史の語り手とも言える、その2つの青銅器を目に前にして、何とも不思議な感覚を覚えた。

特設コーナーを出て、通常の展示室に入ると、数多くの青銅器が展示されている。

青銅器の表面には、不思議な生き物が彫られている。中でも、饕餮とよばれる想像上の動物は、前から、興味を持っていた。饕餮以外にも、いろいろな種類の、不思議な生き物たちが、青銅器の表面で踊っている。

時代が下るに連れて、そうした生き物たちは、次第に姿を消して行く。明らかに、それを作った人々の意識が変わったのだ。

それまで見えていた、不思議な生き物が、徐々に、人の住む世界から消えていき、人々が目にすることがなくなった。

日本の縄文土器には、饕餮はいないが、火炎土器のように、実用を越えたデフォルメがされている。こちらも、弥生式土器になると、そうした装飾が消えてしまった。何か、相通じることがあるように思える。

故宮博物院の青銅器は、実にバラエティが多く、確かに見応えがある。しかし、それらを見ながら、根津美術館の青銅器コレクションを思い出した。

根津美術館のコレクションは、故宮博物院の物に比べても、決して見劣りしない。というより、造形的には、より素晴しいとさえ言える。

中国からも、多くの貴重な品々が、海外に奪われて行ったのだ。

2013年12月22日日曜日

故宮博物院へ


台湾旅行の2日目。朝、龍山寺にお参りし、そのまま士林に向かい、故宮博物院行きのバスに乗り、いったん、故宮博物院で下車してから、そのすぐ隣にある、順益台湾原住民博物館を訪れた。

その後、その日の観光のハイライト、というより、この旅の目的の一つだった、故宮博物院を訪れた。

台北を観光で訪れるほとんどの人は、この施設を訪れるのだろう。この日も、たくさんの人が訪れていた。


バス通りの大きなアーチのある入口から、メインの建物に続く長いアプローチを歩く人影は、絶えることがない。

故宮博物院には、宋以来の中国歴代の皇帝たちのコレクションが収蔵されている。

故宮という名の通り、始めは、北京の紫禁城の一部を利用して、国民党政権によって、故宮博物院として1925年に設立された。

その後の国民党政権と共産党の内戦において、次第に劣勢に回り、大陸を追い出された国民党政権は、運び出せる主要なコレクションを台湾に送り、1965年に、現在の故宮博物院をオープンした。

国民党政権にとって、歴代王朝のコレクションの保持は、政権の正統性を示す、重要な証である。

故宮博物院の施設は、共産党の爆撃に対しても、そのコレクションを守れるように、その地下に厳重な保管場所を持っていると言われている。


中央のメインの建物(第一展覧エリア)から右手には、オフィス棟や第二展覧エリアの建物が見える。

故宮博物院は、イギリスの大英博物館や、フランスのルーブル美術館とよく比較される。

一番大きな違いは、大英博物館やルーブル美術館の収蔵品の多くが、植民地時代に、支配していた地域などからの略奪品であることだろう。

大英博物館やルーブル美術館は、自らが略奪者であることを誇示する施設でもある。

故宮博物院のコレクションは、青銅器、陶磁器、玉、水墨画、書など、いずれも、中国の文物から構成されている。

さて、何はともあれ、そのコレクションを拝見するとしよう。

故宮博物院のホームページ

2013年12月21日土曜日

原住民文化主題公園にて遠い遠い昔に思いを馳せる


順益台湾原住民博物館の通りのすぐ向かいに、原住民文化主題公園、という名前の公園があった。

博物館で購入したガイドブックによれば、台湾にはおよそ3万年前に左鎮人、と呼ばれる人々が住んでいたという。

1万5千年前には、台湾の太平洋側のほぼ中央部の海岸付近に、長浜文化、という文化遺跡が発見されている。


公園の通りに面した場所には、原住民がそれぞれの民族衣装を来ている大きなレリーフが並んで建てられていた。

台湾の原住民は、南東語族あるいはオーストロネシア族といわれる民族グループに属している。

このグループは、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ニュージーランド、ハワイ諸島、ポリネシア諸島、イースター島、そしてアフリカのマダガスカル島まで、広く分布している。

その総人口数は、およそ2億人といわれ、大きな国家を形成できるほどの規模を誇っている。

台湾では、14民族、およそ50万人ほどが原住民として、政府によって認定されている。これは、台湾の人口の2%ほど。最も多いのはアミ族で、11万人ほど。次に多いのは、パイワン族でおよそ85,000人、そして次が、タイヤル族のおよそ81,000人。


台湾の原住民といわれる人々は、何万年もの間、狩猟や採集といった暮らしをずっと続けてきた。

台湾が、他の地域と密接に結びつくようになったのは、18世紀にオランダ人がこの知を植民地化した時から。

明の末期に、清により新しい帝国の前に、最後まで抵抗した鄭成功がこの大陸を根拠地とした。

清の時代になり、福建省の人々が、台湾に住み着くようになり、海を渡った。その数は、台湾の原住民の人々の数をあっという間に凌駕し、この島は、徐々に漢民族が住む島となっていった。

日本が台湾を植民地としていた時代には、日本人による大量殺戮という悲しい出来事もあった。その一方で、太平洋戦争中は、高砂義勇軍として日本軍の指揮下で戦っている。

現在は、原住民の人々が守ってきた暮らしは、台湾の伝統文化として位置付けられている。

台湾と沖縄はすぐ近く。おそらく、南から台湾に移り住んだ人々の中から、さらにその北に船を進めた人々がいたはずだ。

そうした人々は、沖縄や、その先の、九州などの地にたどり着いたに違いない。その痕跡は、沖縄のみならず、北海道のアイヌの人々の暮らしにも残っている。

この公園を歩きながら、遠い昔に、そうした海を渡って行った人々に、思いを馳せた。

2013年12月14日土曜日

順益台湾原住民博物館は穴場でお勧め

旅の2日目。

朝、龍山寺で旅の安全を祈願して、そのまま台北市の北部にある、順益台湾原住民博物館という所に向かった。

順益台湾原住民博物館は、観光の穴場で、台北観光のお勧めの場所の一つ。

順益台湾原住民博物館は、MRT淡水線の士林駅からバスで15分ほどの所にある。実は、台湾観光の目玉である、故宮博物院のすぐ隣、歩いて5分ほどの所にある。


ガイドブックには載っているが、観光ツアーにはほとんど含まれていないため、訪れる人はほとんどいない。

私が、訪れた時、ちょうど前の見学者が帰る所で、その後は、完全に貸し切り状態だった。

今度は、私が帰る時に、若いイギリス人のグループが、まるで入れ替えるようにやって来た。


この博物館は、文字通り、台湾の現住民の人々の歴史や生活の様子を紹介する博物館で、順益企業という企業グループのオーナーが1994年に設立した。

林氏というそのオーナーは、台湾の現住民への関心が深く、多くのコレクションを持っていたが、それを多くの人にも公開し、台湾の現住民への理解を深めてもらうために、この博物館を設立したという。

1階は、入口が大きなホールのようになっており、受付と売店があり、展示は、2階、3階と地下1階。

2階には、ヤミ族の住居、アミ族の囲炉裏などが再現され、農機具や陶器など、生活に関する物が展示されている。

竹を編んで作られたカゴや器などがあったが、その編み方が、縦、横、斜めといろいろなパターンで多彩に編み込まれており、その技術の高さ、デザイン力の高さに驚かされた。

3階には、民俗服、首飾りなどの装飾品が展示されている。赤や青といった原色を使った、色鮮やかな衣装の数々は、展示場の雰囲気を華やかにしている。

パイワン族の、細かいトンボ玉(瑠璃珠)を紐に通して作られた精巧な首飾り。一つ一つのトンボ玉は、色も模様も違っている。かつては、その一つ一つに意味があったが、現在では、忘れてしまったという。

この首飾りは、世界で最も美しい首飾りの一つだろう。それが、あまり人が訪れない、このような所に展示されていることに、何事かを、考えさせられた。

台湾のいくつかの部族では、入れ墨が行われている。中国でも、南方のかつての楚の国では、入れ墨が行われていた。そして、日本では、今でも一部の人々の間で、行われている。そこには、何か共通するものが感じられる。

地下1階は、信仰と祭儀のコーナー。このコーナーが、一番、興味深かった。

パイワン族が占い用に使っていた壷。上を向いて、シッポを丸めている二匹のヘビが、単純化されて、対照的に彫刻されている。

台湾の原住民には首狩りの風習がある。首狩りに使った刀や、首を運んだ袋などが展示され、日本の鳥居龍造が撮影した、首の写真などが展示されていた。

首に特別な力が宿っているという考え方は、かつては世界中の多くの民俗が持っていたのだろう。日本でも、敵の首領の首を取ることは勝利を意味し、それを公衆の場に晒すことは、見せしめの意味があった。

滞在したのは、わずか1時間ほどだったが、台湾の原住民について、多くのことを知ることができた。

もっともっと多くの人に訪れて欲しい場所だ。

故宮博物院のすぐ隣で、故宮博物院との共通入場券が、250台湾ドルで売っているので、お得に2つの施設を楽しめる。

台北に行った際に、少し時間が出来た際は、あるいは、故宮博物院を訪れたら、是非、この順益台湾原住民博物館も訪れてほしい。

後悔することは、決してないはずだ。

順益台湾原住民博物館のホームページ

2013年12月8日日曜日

龍山寺に見る台湾の人々の信仰心

龍山寺の前の通りに面した大きな門を潜ると、次にこの門が現れる。この門の右手が、中への入口になっている。


入口で、ロウソクと線香を売っていたので、買ってみた。いずれも、真っ赤なもので、日本人的な感覚からすると、ちょっと派手すぎるように感じる。




本堂にあたる建物の前には、多くの人が線香を手にお祈りをしていた。

線香に火をつけて、それを目の前に捧げながら、自分の名前と住所を唱え、その後に、お祈りしたいことを述べる。

こちらは、半分観光気分で、軽い気持ちでお祈りしているが、周囲では、真剣な思い詰めた表情で、熱心にお祈りを捧げている人が多い。


本堂の奥には、本尊の観世音菩薩が鎮座している。金ピカの世界。日本の古びた仏教のイメージは全くない。

本尊をよくよくみると、面長で端正な顔立ちをしている。女性のように見える。

日本でも、観音様は時に女性として描かれることがある。その地にある、女神への信仰と観音信仰が融合したのだろう。


本堂の柱の彫刻には、龍を始め、植物や鳥など、複雑な模様が見事に彫られている。


本堂の奥には、沢山の小さな堂があり、それぞれに、仏様や他の神々を祀っている。

入口で買った線香は、本堂だけでなく、こうしたお堂の前にも、一つ一つ、願い事を叶えながら、お供えして行く。

龍山寺には、二つの赤い木の実のようなものを地上に投げて、その落ち方で占いをする、という不思議な占いがある。それを行っている人たちも何人かいた。

この寺は、文字通り仏教のお寺だが、福建地方を中心に信仰される媽祖(天上聖母)や、三国志の関羽(関聖帝君)、日本の天神様にあたる学問の神様(文昌帝君)なども祀られている。

媽祖は、船の航行や漁業を守護する神として、香港やマカオ、シンガポールでも、重要な神様として祀られている。

団体の観光客の人々が、写真を撮ったり、わいわいがやがやと騒いでいるその間で、地元の信者が熱心にお祈りしている。

そこに祀られている神や仏も、そして、そこを訪れる人々も、とにかく、ごっちゃ煮。

この龍山寺という場所は、台湾という国のことを、象徴している場所のように思えた。

龍山寺で旅の安全を祈る

旅の2日目。まず始めに、その後の旅の安全を祈るために、龍山寺に向かった。

MRTの改札口を抜けて右に進むと、地下の商店街があり、その奥のエスカレーターを上がると、目の前がすぐ龍山寺だった。朝早かったためか、どの店もまだ開いてはいず、閑散としていた。

龍山寺は、MRTの龍山寺駅を降りてすぐの所にあり、訪れるにはとても便利な場所にある。そのためもあり、台北屈指の観光スポットになっている。


しかし、そうした観光客の波とは別に、通りの向かいから、この寺に向かって祈りを捧げている地元の人々の姿も眼につく。この寺は、単なる観光スポットではない。

龍山寺は、1738年に建立された、台北市内ではで最も古い寺。対岸の大陸からこの島に渡ってきた、福建地方の人々の手によって建てられた。

台湾に、大陸の人々が大量に移住するようになったのは、清の時代になってからだった。

滅亡した明を再興しようとし、台湾を拠点にした鄭成功の後継者達を駆逐した清は、あまり積極ではなかったが、この地を支配下に置いた。

清の時代になり、農業技術が発展し、人口が爆発的に増加した福建地方から、多くの人が台湾に移住するようになった。

始めは、南部の台南、高雄などが中心だったが、徐々に北上し、今の台北のあたりに定着するようになり、その頃に、この寺ができたのだろう。


寺の入口には、”名勝古蹟”と書かれた石碑が建っていた。


門を潜ると、右手に激しく流れ落ちる水の音がする。近くに寄ると、水しぶきが飛んでくる。

マイナスイオンを一杯に浴びている感じ。参拝する前に、気、を受けるということなのだろう。


逆に左側には、水を静かにたたえた池がある。その対比が面白い。以下の中央には、龍がドグロを巻いている。

この寺の名前、龍山寺をそのまま表しているようだ。

右手の滝の前には、気、をもとめて沢山の人が群がっていたが、こちらは、出口方面ということもあり、人影もなく、閑散としていた。