2014年2月22日土曜日

マンゴーから垣間見える台湾の複雑な歴史

台湾は、北部は亜熱帯、南部は熱帯地方に属するので、熱帯の果物も多い。

中でもマンゴーは、台湾の名物の一つ。マンゴーを使った多くのスイーツを、町中で手軽に楽しめる。


中でも、永康街にあるマンゴーキング(芒果皇帝)というお店は、台湾観光のガイドブックに必ず載っているほど有名。

お店は、MRT新蘆線の「東門」駅を降りて、すぐの所にある。回転が速いせいか、特に店頭に行列が出来るような雰囲気ではなかった。


入り口で注文すると、番号を書いた紙をくれる。見せの奥にある別のカウンターで、番号が表示されたら、それを受け取る、という、意外にシステマティックなシステムだった。


最初は、その量の多さに圧倒されるが、メニューにもよるが、かき氷が大量に使われているものが多く、食べると、意外とあっさりと食べきれる。

店内は意外に狭く、20〜30人程度しか、座れそうもない。お客は、観光客の姿も多いが、学校帰りの学生や、小さい子供連れの母親達など、地元の人々の姿も多い。

マンゴーは、もともとはインドが原産地だが、台湾を植民地にしていたポルトガルが、1561年にそのインドから台湾にマンゴーを持ち込んだ。現在では、南部の台南や高雄の周辺で栽培されている。

ポルトガルは、インドのゴアなど、その一部を植民地にしていた。

ポルトガルが、初めて台湾を訪れた1544年頃で、その島の美しさに、”麗しの島(イル・フォルモサ)”と叫んで、この島の名前にした。

今でも、海外では、台湾のことを、フォルモサと呼んでいるという。

ポルトガルは、その後、オランダとの争いに破れて、台湾は、オランダの植民地になった。

オランダは、中国の明との正式な協定により、1624年に台湾の領有を認められた。明にとっては、山ばかりで平地の少ないこの島は、外国との交渉の材料として使えるとはいえ、直接統治する対象とは考えていなかった。

マンゴーという、このおいしいフルーツの裏に、台湾の複雑な歴史が垣間見えるような気がする。

永康街で出会った動物愛護の活動

永康街にある、回留という店で昼食を終え、すぐ目の前にある公園を抜けようとしたら、犬の鳴き声が聞こえてきた。


そちらに目をやると、移動動物園のようなものが、ちょうど準備中だった。


立てかけてある看板の、漢字の意味を拾っていくと、どうも、放浪動物花園という、動物の愛護を訴えている代表による活動のようだ。


徐々に、会場の準備も進み、徐々に人が集まりだしてきた。

犬や猫などの動物と、直接触れ合ってもらい、動物愛護の活動への理解を求めるのが目的のようだ。


日本という国では、年間およそ17万頭(犬3万頭、猫14万頭、2011年統計)の犬と猫が、不当に殺されている。台湾の数字はよくわからない。

台湾にも日本と同じように、動物愛護法があり、罰則規定まで設けられているが、社会の実態は、日本とそれほど変わらないようだ。

動物に優しくない国は、人間にも優しくない国だと言っていいだろう。

放浪動物花園のホームページ

2014年2月15日土曜日

永康街の回留でベジタブルなランチ

永康街をブラブラするうちに、さすがにお腹が空いてきた。

特にお店は決めていなかったので、信義路の方に戻り、小さな公園まで来たところで、趣のあるお店を見つけた。


回留(フイリュウ)というオーガニック料理を提供する茶芸館。

九份で、台湾茶に魅力にはまってしまったため、是非、茶芸館でランチを食べたかった。

お店の入り口には、オーナーの一人、胡筱貞(Hu Hsiao-chen)さんの写真が大きなポスターで掲示されていた。右の人物で、日本の着物を着ている。


お店の雰囲気は、落ち着いている。入り口は、ショップになっており、奥に、お茶屋食事を出来るスペースがある。

オーナーの胡筱貞さんは、陶芸作家をしており、ショップでは、その陶芸作品や、多くの種類の茶葉が販売されていた。


ランチセットの中の一つを頼んだ。最初は、暖かいベジタブルスープ。こんにゃく、かぼちゃ、大根などが入っており、味は中華スープのような感じ。


続いて、前菜。サラダ、根菜のおひたし、など。


メインは、ベジタブル蒸しご飯、といったところだろうか。

鍋の底に、味のついたご飯をしいて、その上に、季節の野菜を詰め込んで、そのまま蓋をして、蒸らしました、といった感じ。

野菜がとにかく多い。下のご飯に行き着くまでに、かなりの時間を要した。


別にお茶を頼もうかと思い迷ったが、ランチについてるお茶で我慢した。

ウーロン茶だが、とにかく濃厚だった。


お昼を少し過ぎていたせいか、お客の入りは、ちょうどいい感じ。

観光客、近所の住人と思しきグループ、仕事に関すて打ち合わせているような人々と、お客は様々。

一人連れの日本人女性が、お茶のコースを頼んでいた。

回留(フイリュウ)のホームページ

ノスタルジックな永康街

孫文を記念する、中山記念館から、MRTを乗り継いで、MRT新蘆線の「東門」駅へ。駅を降りてすぐの所にある、永康街へ向かった。


永康街は、世界的に有名で、日本に支店もある点心のお店、鼎泰豊があることで知られている。鼎泰豊だけでなく、多くの台湾料理の名店があり、台北の中でも有数の観光スポットになっている。

これまで、近くにMRTの駅がなく、行きにくかったが、最近、MRT新蘆線に「東門」駅という新駅が完成し、俄然行きやすくなった。


永康街は、大きな信義路という通りから横に伸びている小道だが、通りの両側には、大きな有名店から、店頭でできたてのB級グルメを売っている小さなお店など、多くのお店が連なっている。


少し奥の方に行くと、徐々に住宅街になってくる。台湾らしい、緑色を基調とした、色鮮やかな建物が印象的。


日本は、日清戦争後の1895年に、清から独立して、台湾民主国を建国したばかりの混乱期にある台湾に侵攻し、1945年まで植民地として統治していた。

この永康街は、その当時、昭和町と呼ばれ、多くの日本人が住んでいた。当時の建物は、今もいくつか残されていて、街を歩いていると、所々に瓦屋根の家々が点在している。

そうした歴史的な建物を紹介している、案内図のパネルが、広場に建てられていた。


そうした雰囲気のせいか、何となく、昭和時代にカムバックしたような、不思議な感覚を覚える。

時々、路地を通り過ぎる際に、思わず立ち止まってしまう。

子供の頃、こうした路地で、缶蹴りをしたり、メンコ飛ばしをしたり、よく遊んだなあ。

まさか、台北の街の片隅で、このようなノスタルジックに教われることになるとは、夢にも思わなかった。


信義路から離れておくに行くほど、観光地ではない、普段着通りの人々の暮らしの場が見えてくる。

ブラブラとしていると、何ともいえないいい気持ちになってくる。

永康街という所は、時間が許せば、一日中でも、のんびりと過ごせそうな、そんな味わいの深い街だ。

2014年2月11日火曜日

孫文という人物について

国父記念館の、孫文の銅像のすぐ右手には、写真や手記、当時の書籍などから、孫文の生涯をたどれる部屋がある。


孫文は、1866年、清の年号で同治5年に、広東省の客家の農家に生まれた。その後、ハワイにいた兄をたより、その地で学校に通い、西洋的な考え方を身につけた。この経験が、孫文の将来を決めたと言っていい。

帰国後、香港で医学を学び、マカオで医者として開業する。すでにこの時点で、孫文の活動範囲の広さを感じさせる。

外国の列強に圧され、劣勢に立っていた清国の状況を憂いて、次第に革命活動にのめり込んでいく。その中で、迫害を逃れ日本を何度か訪れ、宮崎滔天、頭山満、犬養毅らの多くの日本人と交流した。

アメリカで国籍を取得し、イギリスにも渡り、革命のための資金を広く募った。世界中に、客家といわれる中国人が暮らしている。孫文は、そうした人々に支援を求めた。

孫文らの活躍により、1912年、辛亥革命が起こり、アメリカから戻った孫文は、南京に成立した中華民国の臨時大統領となった。


資料を展示している部屋の一面には、孫文が書いた、中華民国の憲法が、全文、彫り込まれていた。

孫文は、その後、中国北部の軍閥の実力者、袁世凱に大統領の座を譲った。その後、中華民国と新生中国は、長い混乱の時代、そして共産党との内戦に突入する。

1925年、孫文は、道半ばにして、北京で59才で亡くなった。

革命尚未成功。革命、なお未だ成功せず。

孫文の最後の言葉として知られている言葉である。孫文の唱えた三民主義は、民族主義、民権主義、民生主義のことをいう。

この民権主義を、革命の目標として定義するならば、果たして、今の中国は、革命を果たしたと言えるのだろうか?


国父記念館の建物の踊り場では、地元の若い子供たちが、熱心にダンスの練習を行っていた。

この旅の最後で、私は再び、孫文と出会うことになる。

中山記念堂へ

台北101の観光を終えて、そのまま歩いて、中山公園へ向かう。

この辺りは、新しく開発された地域なのか、道路が広く、建物も少なく、歩いていても、開放的な気分になる。

台北探索館、台北市議会図書館、という大きな建物を横目に見ながら、10分くらい歩くと、右手に中山公園が見えてきた。


公園は、真ん中に大きな池があり、緑も多い。毎朝、多くの人が太極拳をここで行うのだという。さすがに、すでに時間は午後になっていたせいか、太極拳をしているひとはいない。

家族連れで訪れている、地元の人と思しき人々がちらほらいる。公園のベンチでのんびりとくつろいでいる、年配の人々の姿もある。


公園の一番奥には、大きな建物があり、国父記念館、という大きな文字が見える。

私たちは、普通、この地域のことを、台湾、と島の名前で呼んでいるが、政治的には、現在、中華民国がこの島を統治している。

その中華民国の建国の父、と言われるのが、日本人にも馴染みの深い孫文。この国父記念堂は、その孫文を記念して建てられ、1972年にオープンした。

中山とは、孫文のことで、孫文が日本に滞在していた時に、近所の表札の字に中山、とあったことからその文字が気に入り、自らを孫中山と名乗ったという。

日本では、通常、孫文として紹介されるが、中国や台湾では、孫中山と呼ばれるのが一般的のようだ。


記念館に入ると、すぐ目の前に、孫中山の巨大な銅像が迎える。

多くの人が像を見上げているが、誰も口を開かず、厳かな雰囲気。ここでは、写真の撮影は問題ないが、大声での会話は禁止されているという。

両端の衛兵はピタリと動かない。この衛兵の交代は、この記念堂見物の一つの目玉になっている。

国父記念館のホームページ。中国語と英語のページしかない。