2014年1月13日月曜日

故宮博物院の特別展・十全乾隆

故宮博物院のカフェ・レストラン、三希堂で一休みして、再び探索を開始。

団体客が大挙訪れる、ピークの時間は過ぎたようで、ゆっくり見学できそうだ。

私が訪れた時期、三希堂の主だった、清の高宗、乾隆帝に関する特別展、十全乾隆-清高宗的藝術品味特展が開催されていた。

乾隆帝は、1711年に生まれ、1799年に没した。その生涯は、ほぼ18世紀全体をカバーしている。清の三代目の皇帝としても、1736年から1796年のおよそ60年の長きに在位についていた。

乾隆帝の時代は、清が最も栄えた時代といわれている。

乾隆帝は、晩年に自らのことを、十全老人と称した。十全とは、全てが、満たされていること。日本の平安時代の政治家にも、自分の生涯を満月に例えた人物がいるが、この東アジア全体を支配した乾隆帝の栄華の大きさに比べたら、スケール感は全く異なる。

乾隆帝は、忙しい政務をこなしながら、芸術品の鑑賞、整理、保護にも熱心に取り組んだ。自らも書や詩を書き、その数は4万点にものぼる。

清を建てた女真族は、モンゴル系の遊牧民族でありながら、中国の文化を尊重し、歴代の王朝が保管してきた文物を、そのまま継承した。

会場には、乾隆帝の好みの文物が展示されている。玉器、宋の青磁、各時代の書画などなど。

乾隆帝は、収集するのみならず、自ら書画の練習を行った。王羲之や顔真卿の書、李迪の鶉図などを、乾隆帝が、そのまま忠実に写したものが、展示されていた。

乾隆帝が命じてまとめさせた、四庫全書。中国の歴史上、最大の文書集積で、四庫とは、経・史・子・集を意味する。全て合わせると、36,000冊、230万ページ。それを収めるだけで、一つの図書館が必要だろう。

過去の書画について、乾隆帝が特に愛した者には、自らその端に、”神”という字を書いている。神業、といった意味だろうか。

清の時代、都の北京には、ヨーロッパの画家たちも暮らしていた。乾隆帝のヨーロッパ風の肖像画は、その端正な顔立ちを伝えている。

乾隆帝は、中国の過去の文化に敬意を払い、ヨーロッパの文化にも興味を持つ一方で、自らの女真族の文化も重視していた。モンゴル文字で書かれた、チベット仏教の美しい経典。乾隆帝は、毎朝、その経典を読んで、一日をスタートさせていたという。

考えてみれば、この故宮博物院全体が、乾隆帝のコレクションそのものともいえる。

特別展であるためか、あるいは、すでに夕方になっていたせいか、このコーナーを見学している人は、少ない。おかげで、ゆっくりと、じっくりと、このたぐいまれな皇帝のコレクションを鑑賞することができた。

さて、これでほぼ半日をかけた故宮博物院の見学も終了。



再び、来た時の長いエントランスを辿りながら、考えた。

乾隆帝の死から、アヘン戦争までは、およそ50年ほどしかない。どうして、これほどまでに栄華を極めた清帝国が、あれほどもろくも崩壊してしまったのだろうか。

何とも、複雑な気分とともに、故宮博物院を後にした。

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