2014年4月26日土曜日

228記念館から持ち帰ったもの

228記念館の2階部分は、デザインが見事で、幻想的な雰囲気に包まれていた。


戦後の混乱の中で、二・二八事件は起こった。その後、1年4ヶ月に渡って続くことになる大事件の発端は、実に些細なものだった。

1947年2月27日。闇タバコを扱っていた一人の台湾人が、検挙され、生活の窮状を訴え嘆願したものの、警察官に銃で頭を殴られ、流血するという事件が発生した。


当時は、台湾で暮らす誰もが、厳しい暮らしを送っていた。闇商売を行うしか、暮らしていけないという状況は、決して他人事ではなく、皆、同じような境遇に置かれていた。

その事件に対する台湾人の反発は、一気に台湾全土に広がり、各地でデモや暴動が起こった。


国民党政府は、戒厳令を発令し、軍隊でそうした暴動を鎮圧し、自治を求めるリーダー達を多数検挙、厳しく尋問、拷問などを行い、結果的に、事件による死亡者は、2万8千人に上った。

その中には、政治家の他にも、裁判官、学者、起業家、教師など、台湾の自治をリードすべき人々が多く含まれていた。

館内には、そうして亡くなった人々の写真を始め、手記や出版物などの記録が、多数展示されている。


二・二八事件は、長く台湾にとってはタブーだった。しかし、1989年に公開された『非情城市』が、その状況を生々しく映像で再現し、世界的に注目されたことで、状況は少しづつ変わっていった。

1996年、後に台湾の総統になる、当時の台北市の市長だった陳水扁によって、台北新北公園は、二二八和平記念公園と名前が変えられ、その中に、228記念館と、犠牲になった人々を追悼するための記念碑が建てられることになった。

台湾を、観光目的で訪れる人の中で、この公園や記念館を訪れる人は、おそらく少ないに違いない。

しかし、少し違った、旅行の思い出を残したい人は、この公園と記念館を、是非訪れてみて欲しい。

ここを訪れた人は、何か大切なものを、持ち帰ることが出来るはずだ。

228記念館へ

総統府を出て、しばらく歩くと、左手に大きな公演が見えてくる。二二八和平公園というところで、日本の占領時代に作られ、その当時は、台北新北公園と呼ばれていた。

広大な敷地の中には、中国風の庭園や、国立の台湾博物館などが建てられている。その公園の中に、228記念館があった。


この度の最初に、九份を訪れた。そこは、映画『非情城市』の舞台だったが、その映画は、台湾の現代史に、大きなくらい影を落としている、二・二八事件を描いたものだった。

228記念館の近づいていくと、何やら音楽が聞こえてきた。丁度、市民コンサートが記念館の前で開催されており、多くの人が、折りたたみに椅子に座って、クラシック音楽に耳を傾けている。


「日本人の方ですか?」

館内に入ると、初老の男性が、親しげに流暢な日本語で話しかけてきて驚いた。

日本の占領時代に、少年時代を過ごしたというその人物は、丁寧に記念館の説明をしてくれた。この建物は、日本の占領時代は、台湾ラジオ放送局として使われていたという。

今も、その放送室が記念として残されている。この放送局からは、いわゆる昭和天皇の玉音放送が台湾全土に流された。

「日本人が台湾にいた時代はとても良かった。今よりも、ずっと良かった・・・」

その人は、しみじみと、最後にそうつぶやいた。


館内の展示は、二・二八事件だけに限ったものではなく、日本の占領下における、台湾の人の自治運動の紹介から始まっている。

古びた外観とは異なり、内部はきれいに改装されていて、落ち着いた色合いで統一されている。

自治運動は、1920年代から活発になった。その流れは、戦後の二・二八事件にもつながっている。


日本の敗戦後、台湾の地には、大陸から蒋介石の国民党政権がやってきた。

残念ながら、新しい体制の中には、台湾の人々の活躍する余地は無かった。要職は、すべて大陸からやってきた、国民党の人々によって占められ、台湾人による自治、という理想とは、ほど遠いものだった。

展示コーナーは、そのまま2階に続いていた。